マルコ12:18-27

  生きている者と共に

 (この記事は、マタイ22:23-33ルカによる福音書 20:27-40にもあります。)

 まず、当時のユダヤの結婚についてです。レビラート婚と言いますが、夫に先立たれた寡婦が夫の兄弟と結婚する習慣がありました。亡くなった夫の家がなくなることないように、跡継ぎを残すための習慣といえます。聖書の中では、申命記25:5-10に律法として書かれており、ルツ記にあるボアズとルツの記事がその実例です。

1.サドカイ派の質問

 サドカイ派の人々はイエス様に、レビラート婚をした人の死後の復活について質問をしました。どうしてこのようなことを聞くのでしょうか?。サドカイ派の人々の教えでは、死者の復活を否定しているはずです。「救世主がやって来て人々が復活する」と信じているファリサイ派への反論として、「死者が復活するならば多重婚になってしまう」ことを主張する質問だったのです。少なくとも、「ほとんど現実味のない想定」なので、問題解決や学びのために聞いたのではないことが分かると思います。ですから、サドカイ派の人々は、イエス様に「死者が復活することはない」ことを認めさせようとして質問したのです。

その論法ですが、「もし復活が本当に起こるとしたら、こんな矛盾が出てしまいますよ。」といった、所謂背理法による証明です。その矛盾とは、復活した女は複数の元夫と夫婦になろうとすると多重婚となり、律法違反になることです。だから、「復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」と聞いたわけです。  

 同時に7人の兄弟の妻になるのであれば、それは姦淫の罪を犯すことですし、長男が夫になるとすれば、他の6人の兄弟がその女の夫であったことを無視することになります。サドカイ派の人々は、神様から頂いた律法が完全で、全く間違いのないものだと言う考えを持っています。ですから、夫と結婚して姦淫の罪になる事も、夫が妻と暮らせなくなる事も、「復活」という有り得ないことを前提とするから起こる矛盾だと言うわけです。つまり、「死者の復活はない」ことを証明できたと考えているわけです。少し、突飛な論理だと思われますが、そこには、もう一つの前提があります。サドカイ派による律法の解釈です。サドカイ派の人々は律法と自らの考えについて、「完全なので矛盾を起こす原因となることはない」と決めつけていたのです。律法が完全だということは、律法を守っていた人が律法違反になるわけがないということです。多重婚という律法違反が起こるならば、間違っているのは、「死者の復活」だということになります。一方でサドカイ派の人々の考えは、「死者の肉体の復活」が無いということだけで、「死者の霊の復活」については、全く視野に入っていません。ですから、「死者の肉体が復活する」という前提だけで、「死者の復活」を議論していたのでした。

 サドカイ派 「死者(の肉体)が復活する」としたならば、「律法では多重婚となり姦淫の罪」

        律法は完全なので、仮定した「死者(の肉体)が復活する」ことが正しくない。

 正しくは  「死者の霊が復活する」としたならば、「そもそも結婚をしない」ここに矛盾はない。

  イエス様は、このようにお答えになりました。

 『12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』

2.人の死と結婚の関係性

 さてここで、聖書が書かれた根源的な考え、「人の死と結婚の関係性」について知っておかなければなりません。この箇所でのイエス様の教えの根本には、「人は死ぬから、命をつなげるために結婚しなければならない」という考えがあります。ですから、「復活した人が死なないのであれば、結婚は必要がない」ということが言えるのです。アダムとイヴの犯した罪によって、死を背負うことになった人間です。そのときから、結婚が必要になったのです。そして、イエス様の福音を受け入れた人々は、復活するとき、永遠の命を頂くことによって死から解放され、また結婚からも解放され、天使の様になるのです。

3.生きている者の神

  さて、話はモーセの時代に飛びます。モーセは、シナイ山で柴(しば)が燃え尽きないのを見たとき、神様の声を聴きました。出エジプト『3:6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を覆った。』

 イエス様は、この聖書の箇所を引用して「死者が復活する」ことをモーセが示していると言われました。モーセは神様の命令によって「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とイスラエルの民に伝えました。どうして、それが「死者が復活する」事の証明になるのでしょうか? イエス様は教えます。

『12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。12:27 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」』

 アブラハムの神は、死んだ者の神ではなく、生きているアブラハムの神。イサクの神は生きているイサクの神。ヤコブの神も、生きているヤコブの神。そのようにイエス様はすべて現在形を使って言われるのです。3人とも、昔の人物であり肉体的には死んでしまっていますが、その魂は生き続けているという意味なのでしょう。ということは、死んだ者が魂においては復活していることになります。しかも、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とは、神様の言葉であります。神様ご自身がアブラハム、イサク、ヤコブに今現在も未来も寄り添い続けていることを宣言していたのです。