ヨハネ20:19-31

 わたしの主、わたしの神よ

2024年 4月 7日 主日礼拝

『わたしの主、わたしの神よ

聖書 ヨハネによる福音書20:19-31


先週は、イースターでした。その時、弟子たちはその時、何をしていたかと言うと、『ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。』わけです。弟子たちの時間は止まっていました。イエス様が捕まったとき、彼らはみんな逃げだしたのです。その逃げている状態は一日たっても何も変わっていませんでした。また、 マグダラのマリアが「わたしは主を見ました」と告げたので、イエス様からの伝言も聞きました。ですから、イエス様が復活したことを弟子たちは知っているわけです。それでも、復活を信じなかった。そしてまた、弟子たちもユダヤ人に見つかると、同じように十字架に架けられる心配があります。なので、鍵をかけて隠れるようにしています。そこには平安はありません。弟子たちは、イエス様が復活したとの知らせに望みを託すか、今すぐにでも散り散りに逃げた方が良いのか、大いに迷ったことだと思います。そういった混乱の中にある弟子たちの前に、突然イエス様が現れます。そして『「あなたがたに平和があるように」』と声をかけました。イエス様は、いつの間にかに家の中に入ってきていたのです。もちろん、こういう状況ですから、弟子たちは家の中に人が入ることのない様に閉め切っています。ですから、イエス様は、鍵がかかっている入り口を通り抜けて、突然そこに姿を現したことになります。そしてイエス様は、手とわき腹を弟子たちに見せました。釘を打ちつけられた手、そして、槍で突かれた脇腹です。十字架で処刑された証拠を見せたのです。すると弟子たちは、喜びました。イエス様は本当に復活していて、今弟子たちの目の前にいます。弟子たちは、どんなに励まされたでしょう。ようやくここにきて、弟子たちの時計が動き出しました。


 トマスですが、アラム語で双子という意味です。ギリシャ語では双子のことをディディモと言います。トマスは、このとき家の中にはいませんでした。イエス様が復活した朝、マグダラのマリアがイエス様に会ったことは、弟子たちは知っています。また、イエス様の遺体が墓から無くなったことも、弟子たちは、見に行って知っていました。それらのしらせによって、弟子たちは希望をもって、集まってきていたのかもしれません。それぞれ、遠くに逃げていたり、隠れたりしていたので、復活したイエス様が現れた時、まだ、戻っていない弟子もいたようです。トマスは誰よりも遠くへ逃げ、そして隠れていたのでしょう。疑い深く、慎重だったのだと思われます。

『20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」』

このトマスの言葉にぞっとしますね。傷口に指を入れるなどとは、とてもできません。・・・トマスはどうして、こんなことを口にしたのでしょうか?。

 トマスの性格については、一般的には理性的な人で、疑い深いとよく説明されます。しかし、この冷淡な確認を要求し、仲間の話を信じようとしないトマスの姿については、この説明では不十分だと思います。トマスも弟子として、他の弟子たちと共にイエス様の伝道に加わり、イエス様の語るみ言葉に希望を抱いていたはずです。それなのに、仲間が見た傷を、無かったかのように言います。なぜ仲間の言葉をこれほどに信じないのでしょうか?。こういう場面を考えると、どうもトマスが理性的だとするのは違っているのかもしれません。むしろ、トマスは心を閉ざしたのだと思います。トマスを除く弟子たちは、家の戸に鍵をかけてたてこもりました。同じように、トマスは心の戸に鍵をかけてしまったのです。トマス以外の弟子たちも1日目つまり復活の日にイエス様に会うまでは、トマスと同じでした。心に鍵をかけて閉じこもっていたのです。

 このトマスのかたくなさについて、私はそこまで疑うものか?と、思いました。しかし、人は極限状態を経験すると、誰の言うことも信じられなくなることはあると思います。現代でも、能登の地震、ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのガザ侵攻と、命が危険にさらされ、そして日常の生活が破壊されてしまう。そんな、明日をも知れない恐怖の中をくぐり抜ける状況ならば、笑顔も、目の輝きも、そして人を信じる心をも失ってしまいそうです。

 トマスも同じ状況だったのではないか?と思います。弟子として従ってきたイエス様が、捕まり、そして自身はかろうじて逃げ延びました。その結果、イエス様が十字架で死に、トマスは生きています。先生を守ることが出来なかったこと、そして、先生を失った衝撃はトマスの心に深い傷を残します。イエス様によって、どれほど多くの人々が慰められ、癒され、そして励まされたか?。トマスは、そのイエス様の姿にあこがれ、イエス様の弟子として従うことが喜びであり、誇りであったはずです。そうであるにも関わらず、トマスはイエス様を守る事が出来なかった。そして、なによりもイエス様に賭けてきたトマスの人生そのものが、十字架の出来事によって、完全に壊れてしまったのです。トマスは心に、鍵をかけました。誰の言うことも受け入れられなくなっていたのです。もし、心が痛んでいないならば、「トマスは釘の跡に指を入れる」などとは言わないはずです。

 わたしたち人間は、そもそも一人では生きられません。誰かと共に命を分かち合って生きているのです。そうすることが喜びでもあります。もし、心を閉ざして生きるならば、それは喜びのない、死の世界であります。しかし、同時に人は、誰かと共に生きる中で心を傷つけられ、苦しみを味わう存在でもあります。どれだけ、私たちは互いに傷つけあっていることでしょうか。そして、どれだけ私たちは傷を負いながら生きていくのでしょうか。それでも、私たちは一人では生きていけません。共に生きるしかないのです。そして、心に深い傷を負った時、誰かと共にいながらも心を閉ざしてしまうのです。

 8日目の日曜日になりました。トマスも、他の弟子たちも、ユダヤ人たちを恐れ、戸に鍵をかけて、家の中に閉じこもっていました。その弟子たちの中にあって、トマスがより酷く心を閉ざしていたのです。

 イエス様は、再び鍵のかかった家の中に現れ、弟子たちのいるその真ん中に立ちます。それはまた、誰も信じられないと 心を閉ざしていたトマスの心の中にイエス様が立ったということでもあります。

 そして、トマスに語りかけます。

『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』

 イエス様は、トマスの言っていたことを全て受け入れました。傷口を指で広げて見るようなことは、だれでもやられたくないし、やりたくもありません。それでも、あえてイエス様は指示します。イエス様を失ってしまったと思い、深く傷ついていたトマスを、イエス様はその姿のままで受け入れてくださったからです。

 弟子たちの中でも特に心を閉ざしていたトマス。「そのままのトマスでいいから私と共にいなさい」と、イエス様はトマスのありのままを受け入れました。記事にはありませんが、トマスは、たぶん赤面した事でしょう。なぜなら、トマスの主張した傷口を確認することなど、本質ではないからです。イエス様が復活した事を信じるか?。・・・これだけが問われていたのです。トマスも含め弟子たちは、復活したイエス様に会って、ようやく復活を信じました。しかし・・・イエス様を見るまでは、復活を信じなかったのです。・・・だからイエス様は、「信じる者になりなさい」と教えます。

 復活したイエス様に会い、全てを受け入れてくださるイエス様の愛に触れ、トマスは応えずにはいられませんでした。

『わたしの主よ、わたしの神よ』

 「わたしたちは主を見た」という他の弟子たちの言葉に対して、そんなこと信じられるわけがないと言っていたトマスでした。しかし、この時、イエス様を「わたしの主」と呼び、「わたしの神」と呼びます。このとき、トマスはイエス様の復活を信じたのです。そして、イエス様が神様であると信じました。ですから、もはやイエス様の傷口を調べる必要はありませんでした。手の釘のあとに指をいれ、わき腹の傷に手を入れて確かめない限り信じないと言ってたトマスですが、この時イエス様によって変えられたのです。イエス様の呼びかけによって、トマスの心にかけられた鍵は外されたのです。心を閉ざし、私が確認できることしか、わたしは信じない と、閉じこもっていたトマス。その心の中に、イエス様は入り込んでそして寄り添ってくださったのです。

 結局、トマスはイエス様の手の釘のあとに指を入れることも、わき腹の傷に手を入れることもしません。つまりトマスは、復活したイエス様にその証拠を見せてもらわないまま、「わたしの主よ、わたしの神よ」とイエス様を信じる者に変えられたのです。


 他の弟子たちから「わたしたちは主を見た」との証し、証言がありました。しかし、その証に対し、トマスはアーメンと同意するどころか、その証がうたがわしいから、証拠を出しなさいと言ったわけです。このままでは、弟子たちの証が共有されずに分断が起こり、トマスは孤立することになります。もしも現代の教会でも、証に対して証拠を求めたならば、大変なことになります。

そんな場面に、復活したイエス様が来てくださり、イエス様自身がトマスの閉ざした心の中に立ってくださいました。

 トマスのように傷つき、心を閉ざしている者には、イエス様ご自身が働きかけてくださいます。絶望の淵に立ち、人を寄せ付けず、心を閉ざすまでに追い込まれている者に、イエス様は寄り添ってくださいます。ですから、十字架で処刑されたイエス様が死から復活し、生きて働いてくださる事に信頼して下さい。私たちに寄り添ってくださるだけではありません。私たちが心閉ざす者に寄り添い、共にいる時、そこにも、イエス様はいてくださいます。

 私たちも、イエス様ご自身が信仰へと導いてくださることに信頼し、傷つき、苦しむ者に寄り添い、共に生きる者となりたいものです。しかし、イエス様のように寄り添ってその人の全てを受け入れる。それは、人の業ではありません。イエス様の愛の業です。イエス様に祈って、「わたしの主よ、わたしの神よ」とすべてをイエス様に委ねる。今まで疑ってきたことも、全てをイエス様に預ける。この信仰を原点として、イエス様の愛を祈り求めて参りましょう。