ミカ6:1-8

神様と共に

2022年 828日 主日礼拝

神様と共に

聖書 ミカ6:1-8 

預言者ミカは、紀元前8世紀ぐらいの人と言うことぐらいしか伝承されていません。また、ミカ書以外で預言者ミカが出てくる記事が、一か所しかないので、あまり知られていないと思われます。

(参考:エレミヤ『26:18 「モレシェトの人ミカはユダの王ヒゼキヤの時代に、ユダのすべての民に預言して言った。『万軍の主はこう言われる。シオンは耕されて畑となり/エルサレムは石塚に変わり/神殿の山は木の生い茂る丘となる』と。』)

一方で、イエス様がベツレヘムに生まれるという預言については、皆さんもご存じのとおりです。

ミカ『5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。』

 預言者ミカは、モレシェトという地中海と死海の中間地点くらいの農村の預言者です。イザヤとエレミヤと同時代ですが、イザヤとエレミヤが国を指導する立場であったのに対し、ミカは、村の預言者であったようです。

 さて、今日の聖書の個所は、イスラエルの国民に訴えるようにと神様が語った言葉で始まります。背景として紀元前8世紀ころのイスラエルでは、(BC722)

年に北イスラエル王国が滅亡するなど、国が衰退していました。これは、神様の側から見れば、偶像礼拝などに走るイスラエルの民への警告でした。しかし、その流れが止まらず、ついにアッシリアに北イスラエル王国を渡したということになります。神様は、イスラエルの民に、神様への信仰に戻るように預言者を何度も使わしました。それでも、イスラエルの民は預言者たちを受け入れなかったのです。ですから、神様はイスラエルの民を告発しなさいと、預言者ミカに命令したのです。


 神様は、イスラエルの民が従わないことに対して、「わたしはお前たちに何をした?」と尋ねます。そもそも、エジプトで奴隷だった民を脱出させ、カナンの地を与えたのは神様です。それ以後も、神様は民を導き続けました。エジプト脱出のためには、モーセや兄アロン、そして二人の姉ミリアムを神様はリーダーとして立てました。また、イスラエルがモアブ(死海の東側の国)に入った時のことです。モアブの王バラクは、イスラエルが脅威になってきたので、バラムと言う名の預言者にイスラエルを呪うよう依頼しました。(民数記 22:1、4)しかし、バラムはイスラエルを呪うことをせずに、逆にイスラエルを祝福するわけです。その理由は、この聖書記事はこのように語ります。

民数記24:13 『~わたしは、主が告げられることを告げるだけです』と、

バラム自身の言葉であります。全ては、神様の意思で決められているので、バラムは、神様の意思通りに、モアブに滞在するイスラエルを祝福したのです。

 こうして、神様から祝福されたイスラエルの民は、モアブの地アベル・シティムから、死海の北側のヨルダン川を西にわたり、ギルガルに入って、エリコの町を奪うわけです。

神様は、預言者ミカを通して『主の恵みの御業をわきまえるがよい。』とイスラエルの民に問いかけます。これだけ、長い間民を導いてきたのに、どうして神様に従わずに、偶像礼拝などをするのか?との問いであります。また、これだけ、恵みを受けながらどこに不満があるのか?との問いでもあります。


 すると、預言者ミカはイスラエルの民に問いかけます。

『6:6 何をもって、わたしは主の御前に出で/いと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として/当歳の子牛をもって御前に出るべきか。

6:7 主は喜ばれるだろうか/幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を/自分の罪のために胎の実をささげるべきか。』

 預言者ミカは、イスラエルの民の罪の大きさに対して、どんな捧げものをもって神様の前に出るべきかを問います。今年生まれた小牛を焼き尽くすのですか?それで、神様は喜ぶのでしょうか? それとも、幾千の雄羊をささげるのですか、いやいや幾万もの雄羊でなければこの咎に対する犠牲として少なすぎます。それならばいっそう、長子を・・・自分の罪を贖うには実の子をささげなければいけないのでは?・・・

 カナンの地では、長子(正式な結婚によって最初に与えられた子)を神々に献げるという習慣がありました。ユダヤ教では、アブラハムがイサクを献げようとしたところを、神様から止められて以来、長子を捧げることは禁止されています。ですから、そのほかには、長子を犠牲とするような聖書の記事はありません。そして十戒では、人を殺すことを禁止されました。しかし、土着の神々を信仰している民は、長子を犠牲にする習慣を持っていました。預言者ミカは、「異教の教えに従う罪」を犯したイスラエルの民に向かって、聞きます。「自分自身の罪が深いことを知ったあなた方は、長子を犠牲にしようとするのですか?」と。もし、そんなことならば、またさらに深い罪を犯すことになります。もちろん、神様はそのようなことを求めていません。

預言者ミカは続けます。


 『6:8 人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。』

神様の求めているのは、「正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと」であります。神様は、たくさんのいけにえの動物を求めているのではありません。ましてや、長子を献げるなどとは、もってのほかです。しかし、長い間、イスラエルの民は神様のことを忘れていたのです。


 その当時の実態を聖書の中から読み取ってみましょう。

ヨシヤ王の記事を列王記下から

列王下『23:2 王は、ユダのすべての人々、エルサレムのすべての住民、祭司と預言者、下の者から上の者まで、すべての民と共に主の神殿に上り、主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせた。

23:3 それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。

23:4 王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、入り口を守る者たちに命じて、主の神殿からバアルやアシェラや天の万象のために造られた祭具類をすべて運び出させた。彼はそれをエルサレムの外、キドロンの野で焼き払わせ、その灰をベテルに持って行かせた。』

 ヨシヤ王は、ユダヤ教を回復した宗教改革家で知られています。そもそも「契約の書」を無くしていたし、その存在も知られていなかったわけです。それから、契約の書を見たヨシヤ王は過ぎ越しの祭りを復活させます。(王下23:21)契約の書とは何かといいますと、出エジプト記20:22から23:19までを指します。ちょうどモーセの十戒のあとに書かれている、神様とイスラエルの民の間の契約です。当然、イスラエルの民にとっての「掟」でありまして、そのような重要な文書が「全ての民の記憶になかった」わけですから、契約の書を使わなくなってさらに何世代かたったのだと思われます。そして、神殿の中で、バアルやアシュラや天の万象のために礼拝を行なわれたことがわかります。

 エゼキエル書の8章にも、激怒を招く像(アシュタロテ)があり、偶像礼拝用の隠し部屋があり、タンムズ神(男性の豊饒の神)があり、東を向いて太陽を礼拝している姿が預言されています。このように、神殿は完全に汚されていたのです。


 このように、イスラエルの民は、神様を忘れていました。契約の書も忘れられていますから、神様の命令を知らないまま、つまり本能のままに生きていたことになります。そして、土着の宗教を受け入れて来たわけです。ですから、民族として最重要な祭りである、過ぎ越しの祭りまでも忘れられてしまいました。こうなってしまうまでの間も、預言者たちはイスラエルの民に警告を出し続けたのですが、聞き入れられなかったのです。

 このようなユダヤ教の暗黒の時代に、預言者ミカが、神様にたち帰るようにイスラエルの人々に訴えます。あなたがたは、神様に選ばれ、神様に救われた民族であることを思い出すようにです。

 当時のイスラエルの民は、罪をあまり深刻に考えないで、「罪が大きいならば、それだけ生贄を出せば、赦される。」という理解していたのだと思われます。ですから、預言者ミカとしては、神様のもとに帰るために必要なのは、生贄ではないことを訴えました。そこで、預言者ミカは、神様のもとに本当の意味で帰る方法を教えます。それが今日のお話の中心です。

 「正義を行い」と言うことは、契約の書に書かれている戒めを守ることであります。この契約の書を守ることは、なかなか難かしいことです。そして、その契約の書に書いていることを守っていただけでは、私たちは正義であるとは言えないのです。なぜならば、すべての律法は、神様を愛することと隣人を愛することに基づいているからです。ですから、その二つの愛がないのならば、その正義はみせかけでしかないのです。神様を愛し、隣人を愛していてこそ、律法に従った行いは本当の正義となるでしょう。

その証拠に、イエス様はこのように言われています。

マタイ『22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』22:38 これが最も重要な第一の掟である。22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』22:40 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」』

 

 次に「慈しみ」ですが、この意味するところは、「神様の恵み」です。

ローマ『3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。』

 神様は、罪人であるわたしたちが、罪を犯したままでいることを望んではいません。しかし、人間の罪は「自分の努力」で償えませんから、神様は、イエス様の十字架の贖いを用意して、人の罪を赦したのです。そして、イエス様は十字架の死の後、死からよみがえって、今も、生きています。わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じることによって罪が赦され、永遠の命が与えられたのです。

この神様の恵みをうけたこと、そのことに感謝して、神様を愛するならば、それは正義へとつながります。

 最後に、「へりくだってあなたの神と共に歩む」です。

 「くりくだる」とは、日本語では相手を敬って自分を低くすることですが、原語から見ると「謙虚に」と言う意味です。へりくだるまでしなくても、良いということですね。と言うことで、イエス様の救いを受けることの始めは、自身の罪を謙虚に認めることです。事実は事実とみとめ、それをそのまま告白する。ふくらましもしなければ、減らしもしない。謙虚な姿勢で、イエス様に告白し、そして、祈って赦してもらう。このようにして、わたしたちは、イエス様と共に歩むことを許されているのです。この神様の恵みに感謝しましょう。