1.理想の家庭
この箇所には、途方もない理想が描かれています。それは決して人間的な努力で達成できるものではありません。自分の知っている家庭をこの基準で評価すると、だれでも追い詰められるだけです。神様の創造とキリストにある再創造という視点から、人間関係を見直すその一つとして家庭が取り上げられていると考えると良いでしょう。
エフェソ『4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。』
つまり、キリストにある再創造とは、異なった者同士が組み合わされて、成長し、教会となっていくことなのです。その創造の中に、神様のかたちに創造された男と女が、キリストにあってしっかり結び合わされるいう前提があるのです。
2.妻たちよ
『5:22 妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。5:23 キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。5:24 また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。』
「仕えなさい」(5:22,23)と訳されていることばですが、原文には「仕えなさい」という動詞はありません。関係性を示す言葉、形容詞で「自分自身の」があるだけです。翻訳困難なので、「仕えなさい」の訳は、意訳の範囲を超えています。すくなくとも、妻への一方的な服従命令ではないのことは確かです。ですから、『5:21 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。』が、メインの命令であって、「妻たちよ~」は、その「互いに」の説明の一部に過ぎません。
「教会の頭(キリスト)=教会の体の救い主」、「家の頭(夫)=妻(家の体)の救い主」と対比してみると、やはりこの時代は家長の権限が強くて、妻が家の財産の一部みたいな考えのもとに書かれたと思われます。また、22~24節で「仕える」とのことばは、4回出てきますが、原文は「教会がキリストに仕える」のところだけです。ここでも、「教会がキリストに仕える」という姿に、家庭においては妻が率先して倣うようにという勧めで、「互いに仕え合う」模範を示すことが期待されていると言えます。
3.キリストが教会を愛したように、妻を愛する
『5:25 夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。』
原文でも、妻の場合とは対照的に、「無条件に愛しなさい:アガパオー」という動詞が二度も使われています。夫に対しては、「妻を愛しなさい」という、有無を言わせない命令形が記されています。
そればかりか、キリストが教会を愛し、そのためにご自身のいのちを犠牲にし、それによって教会をご立たせるという途方もない救いのみわざを示しながら、命令します。
『5:28 そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。』
ここでは、夫が妻を心から愛そうと努めないのでは、自分自身を愛することさえできないと断言するものです。パウロは夫が自分の妻を愛すべき理由を、「主の救い」のみわざに結び付けます。
『5:26 キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、5:27 しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。』
キリストがご自身のからだである教会を通して、ご自身の栄光を現わすように、夫は妻を愛することによって自身の真の誇りと生きがいを体験することができます。
『5:29 わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。5:30 わたしたちは、キリストの体の一部なのです。5:31 「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」5:32 この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。』
ここの「神秘」とは、最初に述べた「キリストにある再創造」のみわざとして、その存在を認められるべきものです。つまり、夫婦関係にこそキリストの圧倒的な救いのみわざが現われるのです。ですから、極めて人間的な夫婦関係を、キリストと教会との神秘的な関係に見直す必要があります。それは、クリスチャンホームが愛の交わりとして形成されていることこそ、何よりもキリストの愛の証しだからです。
最後に、
『5:33 いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。』
ここで、「妻は、夫を敬いなさい」の「敬う」とは「恐れる、尊敬する」という意味です。
これは、子供の信仰にもつながります。妻が夫を軽く見ていると、子供も父親を軽く見るようになります。しかし、父親にも母親にも神様が立てられた役割があります。妻が、夫を恐れ敬うこともなく軽く扱っていると、子供もこの神様から与えられた役割、権威を軽く見るようになります。それは、神様の権威をも軽く見ることでもあります。
パウロの言うことは理解できても、自分で自分を変えられないと認める人はどうしたらよいのでしょうか? いえ、その人の中にこそ、創造主のみわざが現されるのです。互いに正義を主張し合う関係から、キリストの愛に包まれ、その愛に動かされて互いに仕え合う関係へと成長すべきなのです。