1.新しい人として
エフェソ 『4:24 神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。』
この記事を受けて25節以下の記事があります。(表題を入れる切れ目が 不適切?)
この新共同訳の翻訳には、問題があります。「真理に基づいた正しく清い」の原文は、「真(まこと)の義しさと聖さ(純粋さ)に基づく」(ἐν ἀληθείας δικαιοσύνῃ καὶ ὁσιότητι)です。細かいですが、生活の基本となるべきは、「真の義しさと純粋さ」と書かれています。決して生活の基本は、「真理」ではありません。また、「真理に基づいた正しさ」を基本とすることはある程度受け入れできますが、「真理に基づいた清さ」は、意味不明であります。
と言うことで、「真の義しさと純粋さ」に基づく歩みを、新しい人に求めるのです。
『4:25 だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。』
だから、「偽りを捨て」、「(純粋に)隣人に対して真実を語る」者としての歩みでなければならないと語られています。これは、すでに語られているこの言葉と、調和がとれています。
エフェソ『4:14 こうして、わたしたちは、もはや未熟な者ではなくなり、人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、4:15 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。』
クリスチャンの交わりは、「愛に根ざして真理を語り」合うことによって、「頭であるキリストに向かって成長」する交わりです。そして、25節では、「隣人に対して真実を語る」とされています。キリストによって現された神様の愛と真実に生きる、それが、キリストであるイエス様と一体となった教会のあるべき姿です。そのことから、パウロは、「わたしたちは、互いにからだの一部なのです」と語っています。
教会が頭であるキリストにまで成長するために、パウロは、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」と言っています。私たちが、偽りを捨てて真実を語るとは、どんな場面を考えたらよいでしょうか? あったことだけを話す。なかったことを話さない。誇張や過小な表現をしないだけでよいのでしょうか? いや、純粋な気持ちで、そして神様の愛に倣って隣人と接する。このことも大事です。教会の交わりは神聖で純粋なのです。しかし、これらをすべて満足するように話をするとしたら、それは、もはや証しであります。ですから、教会にはキリストを証する信仰の言葉が必要なのです。
しかし、話合いが互いの「怒る」感情に曝されるなら、「罪を犯」し、「悪魔にすきを与え」ることになるとの警告もここに語られています。
『4:29 悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい』
たしかに、その言葉が必要か、自己吟味して語る必要があります。その上で、「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を」語ることが大切です。それは、イエス様の言葉です。教会を頭なるキリストへと導くのは、イエス様から与えられる「真理の言葉」にほかなりません。その「真理の言葉」を読み聞きし、理解すること。そして、その言葉を信じ、その言葉にとどまって生きる。その導きをするのは、聖霊です。
『4:30 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。』
2.聖霊の働き
「あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されている」この言葉の意味は、この御言葉と合わせて理解する必要があります。
エフェソ『1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。』
天の国との境には関所があるとしましょう。外国に行くときにパスポートが必要です。それと同じように天国に入るためには、許可証が必要です。天国へ行くわたしたちの旅を保証するのは、わたしたちの信仰です。わたしたちの心に、聖霊が刻む証印が必要なのです。この聖霊による証印が、キリストの永遠の贖いの信仰を保たせ、わたしたちの信仰を保証してくれますから、「贖いの日」、即ち、主イエスが再臨されて裁かれるときに、完全な者とされ、御国の幸いに与るのです。
聖霊は、わたしたちの信仰生活を初めから最後まで導いてくれます。わたしたちの心が痛む時、聖霊もまたその心を痛め、わたしたちの心のさけびを聞き、執り成しや導きをしてくれるのです。しかし一方で、聖霊は、私たちが御心に反する罪を犯したり、御心に反する行いをとる時、悲しみ苦しむのです。だから、30節でパウロは、「神の聖霊を悲しませてはいけません」と語っています。聖霊も、親のようにわたしたちのことで、うめき苦しんでくださるのです。
わたしたち一人一人は、聖霊の宮です。わたしたちの信仰生活、教会生活は、聖霊に導かれる生活だからです。この聖霊の私たちへの思いを知って、聖霊の導きに従って歩むことが、新しい人を着た人のふさわしい歩みとなります。
聖霊は御言葉によって導きを与える神です。だから、わたしたちが御言葉の真理にたって、御言葉に聞き、キリストの愛に生きることを、聖霊は喜びます。偽りを捨て、愛に根ざして真実を語り合う教会、隣人としての交わりを保つ教会となることを、聖霊は願いながら執り成してくださっています。その聖霊の導きに従う教会となることが、わたしたちに求められています。