1.解説
『3:13 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです。』
使徒パウロは、彼自身が受けた苦難よりも、信者たちがパウロが受けた苦難に恐れを感じて気を失ってしまわないように、心配しています。そのために、パウロは「祈る」と宣言しています。パウロは、最高の祝福である霊的な祝福が、信者たちに与えられるよう求めて祈っています。
(落胆:原語にはこの部分に言葉はなく、なにも書かれていません。後日、訳者が補足したものと思われますが、「気を失う」と訳している聖書が多いようです。14節では、それを受けて話を続けていますから、使徒パウロは本当に信者たちが気を失うことは想定していません。もちろん、気を失ってしまわないように祈ったのですから・・・)
『3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ』るようにと、パウロは祈ります。キリストを受け入れて信仰を頂いたならば、あとはキリストが心の内にいて、愛に根差した生き方に導いてくださる。だから、私たちに必要なのは、「キリストへの信仰」なのです。
私たちは、愛が私たちの中に取り込まれることを望むべきです。そして、私たちの魂に対するキリストと神の愛に取り込まれたと感じることは、どれほど望ましいことでしょう。使徒パウロはキリストの愛についてこれほど力強く語っています。キリストの愛の広さは、すべての国とすべての階層の人々を覆っています。キリストの愛の永遠から永遠へと続く長さ。キリストの愛の深さは、罪と惨めさの深みに沈んだ人々を救うこと。キリストの愛の高さ、それはイエス様を信じる者を天国の幸福と栄光に引き上げます。キリストの完全さから恵みのために恵みを受ける人々は、神の完全さで満たされていると言えます。
2.記事に関するメモ
① 『3:1 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。』
3:2から3:13まで、中断されていたものが、3:14から再開されたと考える人もいます。なぜなら、3:1で言いかけたことを・・・と中断しているからです。しかし、彼が直前の「気を失わないでください」を(3:13)参照している可能性が高いように思われます。
②『ひざまずいて祈ります』
「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。」…つまり、「信徒がパウロの苦難を知って気を失わないように」使徒パウロは、父なる神様に両膝(γόνατα:複数形)をついて祈ります。
(ひざまずくは、一般的に片膝。ひれ伏す>両膝をつく>片膝をつく 使徒パウロはひれ伏して祈ったのではないかと思われます。)
なぜ、そのようにして祈るかと言えば、それ以外にキリストの伝道者として望ましいことは何もないからです。これは神様から賜った純粋な行動であり、神様がその結果を約束したものであります。それだから、使徒パウロのしたように祈るべきです。神様が神様の民のために計画して、約束したことのために、使徒パウロはいつでも祈ることを求められています。そして使徒パウロの意図は、これらの信徒たちを奮い立たせて、使徒パウロたちのために祈ってもらうことでもあります。使徒パウロが祈りに使ったポーズは両ひざをついて、ひれ伏すことでした。男性は祈りの中で特定のポーズに縛られません。大事なのは心です。単なる姿勢やポーズは、神様にとっては大事なことではありません。心が大事なのです。そして心が揺さぶられているととき、体は自然と動かされます。そして、このひれ伏すポーズは、敬意、謙遜、そして祈りの服従を表現しているかもしれません。使徒パウロが祈った対象は父なる神様です。
③『私たちの主イエスの父なる神様。』
この言葉は最古のアレクサンドリア写本とエチオピア写本にはありませんが、それでも他の写本には確かに記録されています。なぜなら、神様はキリストの父であり、キリストは創造によってできたのではありません。また、養子縁組によってでもなく実の父と子なのです。ですから、キリストは父なる神様の独り子であるからです。父なる神様とは、キリストだけがそのように神様に祈るのではありません。使徒パウロはイエス様が教えたとおりに正しく祈っているといえます。使徒パウロはキリストにあって、またキリストを通して、神様の民の御父であられます。キリスト以外に神様のもとに行く方法はありません。そして、すべての霊的な祝福はキリストの父としての神様から、キリストを通してもたらされます。
④『このために、わたしは主イエス・キリストの父に向かって両膝を曲げ、』(英語聖書からの試訳)
使徒パウロは、彼自身の苦難を例にあげて、「教義の有効性」は神様の愛に依存することを教えています。それだから、多くの愛に与るために、私たちは「祈り」と「言葉による宣教」に参加するべきです。そして、これらから受ける恵みは、若い人たちだけでなく、年長の人たちにとっても必要です。彼らがキリストへの信仰によってますます成長し、霊的な賜物が確認されるにつれて、彼らは父なる神様がキリストを通して私たちを(彼らを)愛してくださった、その計り知れない愛について知ります。そして、この恵みによって、私たちはすでに天国に受け入れられています。これがすべてではありません。まだ、地上にある家族全員が、天の父との養子縁組できているわけではないからです。イエス様によって、信仰が与えられ、その天の父との養子縁組がすべて完了するまで、福音を宣べ伝え続ける必要があります。