2025年 6月 8日 主日礼拝
『天に上げられたイエス』
聖書 使徒言行録1:1-11
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)ですので、聖書は使徒言行録からイエス様が天に上げられる記事を選びました。使徒言行録は、ルカによる福音書を書き終えたルカが、その後の使徒の活躍を、またその背後で導いた聖霊の働きを書き記したものです。冒頭の、献呈の言葉にありますように、テオフィロという人のために書いたということです。ルカは、広く福音を伝えるために、人々への影響力があるローマの高官に献呈したのだと思います。ところでテオフィロと言う名前ですが、実在した人の名前なのかは、疑問です。と言うのは、個人名を出さないように、テオフィロと呼んだのかもしれないからです。それは、テオフィロと言う言葉が、「神の友」あるいは「神に愛されている」を意味していることによります。(Θεόφιλος:テオフィロス=θεός:テオスの意味は「神」+φίλος:フィロスの意味は「友人」または「愛する人」)また、ルカによる福音書の献呈文には、「閣下」(κράτιστος:クラティストス)みたいな敬称が付いていましたが、使徒言行録では、呼び捨てとなっています。ですから、テオフィロと呼ばれているローマの高官は、ルカによる福音書が書かれた時には求道中だったのが、使徒言行録の献呈の時には、クリスチャンになっていたのだと思われます。
今日は、聖霊が降った日、ペンテコステです。イエス様は、復活して40日間、弟子たちの前に現れて、その後に天に上げられました。そして、その10日後には、聖霊が、イエス様の名前によって、この地上に降ってきたのです。イエス様は、天に上げられる前に、こんなことを弟子たちに話していました
『1:4 ~「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。1:5 ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」』
イエス様の命令は「エルサレムで待機しなさい」でした。神様が約束した「聖霊」が降る場所はエルサレムです。そこに行って「聖霊」のバプテスマを受けなさいとの命令です。同じ事を、バプテスマのヨハネも預言していました。
ルカ『3:16 そこで、ヨハネは皆に向かって言った。「わたしはあなたたちに水で洗礼(バプテスマ)を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼(バプテスマ)をお授けになる。』
また、そのことが起る場所がエルサレムであることを示す預言もあります(ミカ4:2、イザヤ2:3)。イエス様は、「父の約束」と言っていますが、直接神様が約束した と言った記事は 聖書にはありません。しかし、イエス様ご自身は聖霊についてこのように教えています。
ヨハネ『14:24~あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』
今、天に昇ろうとしているイエス様は、地上に残す弟子たちに、「イエス様ご自身の代わりに聖霊があなた方を導く」ことを約束したのです。すでに、このことはヨハネが預言していて、昇天を前にイエス様自身が予告したのです。
『1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』
イエス様は、聖霊の力によって、弟子たちが活躍することを予告します。伝道の業は、エルサレムから始まって、方々へ広まります。そして、ユダの国にとどまらず、地の果てにいる人々までもが、イエス様を信じ、証しをすることになるのです。これは、弟子たちへの命令でもありました。国境を越え、地の果てまで伝道しなさい・・・。そこには、聖霊がともにあるから大丈夫だとの励ましでも ありました。
『1:9 こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。』
弟子たちがイエス様の姿を見ることができ、イエス様との話ができるのは、これが最後の機会でした。それで、イエス様は弟子たちに、言っておかねばならないことを二つ、話します。
その話 の内容は、ルカによる福音書に書かれています。
ルカ『24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』~』と。
イザヤ書、ゼカリヤ書などからの引用ですが、三日目によみがえることは、ヨナが魚に飲み込まれた記事などがあります。聖書は、事あるたびに三日を暗示しているのです。しかし、明らかに三日目によみがえると言ったのは、イエス様だけでした。(マタイ12:40、ルカ24:46)
イエス様が言ったのは、第一に、イエス様は十字架の上で死をとげ、三日目によみがえったこと。そして、第二に、イエス様の名による罪の赦しが世界中に宣べ伝えられることです。この二つを、まず弟子たちに しっかり理解しなさい。そして、信じなさい、と教えたのです。イエス様は、そのために弟子たちの前に、復活の後40日の間現れ続けました。もちろん、必要だったからです。つまり、弟子たちは復活したイエス様を見るまで、そして、実際に復活のイエス様に会った後も、イエス様の死と復活の意味を理解していなかったのです。
まず、第一に、イエス様の十字架での死と、復活についてです。実際、復活したイエス様を見た弟子たちの印象は?、と言うと、
ルカ『24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。』とあります。そこでイエス様は
ルカ『24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』
弟子たちには、イエス様が「よみがえった」ことを信じる、これが難しかったのです。そして、大事なことでもあります。すべては、預言され、そしてイエス様によって予告されていました。知らされていたのに、弟子たちは理解していない。それでは、神様が私たちとのつながるための預言が、意味をなさなくなってしまいます。だから、今、弟子たちは預言をりかいして、神様との繋がり直す必要があったのです。
ルカ『24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」』
イエス様は、弟子たちに 今起こっている事柄は預言されていたので、知っていたはずだ と言います。
ルカ『24:46 ~「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。~』
第二は、福音が全世界の宣べ伝えられることです。イエス様が教えてきた神の国と、弟子たちが抱いていた神の国は全く違っていました。弟子たちは、「イエス様の中に神の力、奇跡の力があるのを見て、ローマ帝国の支配からイスラエルを解放してもらう」そんなことを期待していました。だから、彼らはこんなことをイエス様に聞いたのです。
『1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。』
この言葉は、直接的には「ローマを倒すための革命を起こすのは今ですか?」と言う意味です。弟子たちの描いた神の国とは、この世を支配することでしかありませんでした。彼らは、「革命を起こして、イスラエルに平和をもたらす」そんな神の国を思い描いていたのです。・・・この大きなギャップは、埋めなければなりません。イエス様は教えます。
『1:7~父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。』
神様は、この世を、そして人々を愛しておられるので、人々を裁く前に、人々が悔い改めて、そしてイエス様を信じるときを、待っています。だから、その時を知ろうとする前に、イエス様の福音を告げ知らせる必要があるのです。そして、イエス様の最後の言葉を伝えます。
『1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」』
弟子たちへの伝道命令は彼らにとってたいへん重いものです。イエス様が再び来られる時、キリストに属している者は救われます。だから再臨の時までに、すべての人を信仰に導きたい。その役割は、弟子たちに託されたのです。
再臨の時、キリストは全ての支配、全ての権威、勢力を滅ぼします。その本当の目的はあらゆるものに勝つことです。これこそが、復活の意味です。なぜなら、あらゆるものは必ず死にます。だから、死なないことこそがあらゆるものに勝つことだと言えます。それが、復活なのです。復活した、キリストは、全てのものに勝った。と言えるでしょう。世の終わりが来た時、キリストは全ての支配、全ての権威と勢力を滅ぼし、父である神様に御国を引き渡します。キリストこそが、まことの勝利者なのです。死が私たちの最後の敵であり、もっとも恐ろしい敵です。その死から復活したキリストは、死を滅ぼしたのです。その復活したイエス様が天に上げられる前に、弟子たちに命令しました。
『あなたがたは力を受ける。~地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』
すべての人々がイエス様を信じるようにと、その働きを使徒たちが担ったように、私たちもイエス様を証ししてまいりましょう。