ペトロはイエス様に尋ねました。
『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』
ペトロがこの質問をした背景には、イエス様が兄弟の罪の取り扱い方も含めた牧会を教えていたことにあります。使徒パウロは、「愛」とは相手を建て上げること、相手の成長を願うことであると記しています。牧師の務めの一つは、牧会です。それは、主にある兄弟姉妹がキリストにあって整えられ、成長していくように、御言葉と祈りによって仕えていくことです。ですから、牧会の働きは、牧師の務めなのではなく、教会の働きなのです。教会は、イエス様の御言葉を土台として、兄弟姉妹の愛の内に建て上げられていくのです。
イエス様は言いました。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』
ここで、イエス様は「無制限の赦し」と「赦しの心をもって向き合うこと」を教えました。但し、赦しは、罪がなかったことにするのではありません。私たちがどのようにその罪を取り扱うかが問われているのです。自分の思い通りにならない苛立ちや、メンツを傷つけられた怒りからその判断を求めてはいけません。むしろ相手の成長を願うことが問われます。その愛によって、罪を犯した人の思いは変わってくるでしょう。何故、私たちは赦しをもって向き合うのでしょうか。それは、神様が私たちを赦してくださったからです。しかも際限のない無限な赦しです。イエス様はそのことをこう譬えています。
『18:24 決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。18:25 しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。~18:27 その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。18:28 ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。~18:34 そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。18:35 あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」』
王は家来たちと貸し借りの清算をしたいと思い、まず一万タラントン(億円に近い金額)の負債のある家来を呼びました。彼は返すことができません。しかし、主人は「憐れに思って」赦したのです。しかし、彼は主人の前から出て行くと、自分に百デナリオンの借金がある人と出会い、いきなり捕まえ、首を絞め続け、借金を返すよう命じました。その人が赦しを求め続けても、赦すことなく、公の場に引いて行って牢に投げ入れました。王様の譬えは、神様を示します。一万タラントンの負債のある者は私たちを、100デナリの負債のある者は、教会の兄弟姉妹、もしくは私たちの隣人のことです。
イエス様は、神様の赦しについて語りました。神様は私たちを憐れみ、一万タラントンというすごく大きな負債を御子イエス・キリストを十字架に架けて、赦してくださいました。それは、神様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちも兄弟姉妹を赦すべだと教えているのです。しかし、私たちは神様のように赦すことがなかなか難しいのです。この譬えは、「神様の愛が、私たちの罪を赦してくださった」そして、それが、「私たちが人を赦す原動力であること」をも教えています。
しかし、その家来は、王様の前から出て行くとすぐに、王様の赦しの恵みから離れてしまいました。赦されたすぐそのあとに、人を赦すことをしなかったのです。大きな恵みを受けながら、その恵みの一部を分かち合うことをせずに、その全てを自分のものとしてしまったのです。赦されていながら、誰をも赦さなかった と言えるでしょう。私たちは、神様から赦されていながら、人の負い目を赦すことができないのです。そんな時は、神様に対する自らの罪と、神様が赦してくださった恵みを見失っているのです。
さて、ここで家来が仲間を赦せなかったのは、何故でしょうか?。それは、どれほど王様から愛されているかを知らなかったからです。彼は、自分が払いきれない負債を負っていることを理解していませんでした。だから、100デナリの借金をしている兄弟が払いきれないことを理解できなかったのです。私たちが兄弟を赦すのは、自分がしっかりと神様の赦しに与っていることを感じているかに関わっています。まず、自分がどれほどの罪を犯してきたのか理解しなければいけません。1万タラントンなのです。そして、神様はそれを全部赦してくださったことを受け止めなければいけません、一部ではなくて全部なのです。
ここでは、私たちがお互いに示すべき態度について学びました。すべてに共通することは、キリストを自分の基準にすることです。キリストにある神様の赦しを知るときに、私たちの兄弟を赦すことができるのです。教会における良い人間関係は、キリストを基準にした生活を送ることによります。絶えずキリストと自分を比べ、自分にある全ての事に、キリストがかかわってくださる事を認め、キリストが自分の行っていることに対し、受け止めていきます。私たちは、キリストのからだです。キリストは必ず、私たちを通して、神様の栄光を表します。