2024年 10月 6日 主日礼拝(召天者記念礼拝)
『わたしを信じる者は、死んでも生きる』
聖書 ヨハネによる福音書11:17-44
今日は、召天者記念礼拝を守っています。信仰の諸先輩方を覚えて、ラザロの復活の記事からお話をします。この記事のテーマは「永遠の命」についてです。イエス様は「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と教えました。この箇所から、信仰によっていただくことができる永遠の命についてお話ししたいと思います。
ラザロとは、ベタニア村のマルタ、マリアの弟です。姉妹は弟ラザロが重い病気だとガリラヤにいるイエス様に知らせました。イエス様は、エルサレムで危険な目にあって、ガリラヤに避難していたときのことです。二日たった後に、イエス様は、危険を冒してエルサレムの隣のベタニア村に向かいます。そしてマルタに会ったのですが、すでにラザロは死んでいました。そのときのイエス様の言葉が、今週の聖句に選んだこの箇所です。
ヨハネ『11:25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』
「わたしを信じる者は、たとえ肉体的に死んだとしても、生きるでしょう」という意味です。ここで生きると訳されている言葉は、命(ザオー:ζάω)の動詞形です。そして、意味は「生活する」、「生きている人の中にいる」、「生きている」となります。肉体的に生きていることよりも、広い意味ですね。ですから、イエス様を信じた者は、死んだあとでもイエス様の中で生きている。また、かかわった人の中で生きている。そうイエス様が教えたと言えます。また、「死んでも生きる」とは永遠の命を得ることを指します。それは、イエス様の十字架での犠牲と、復活によってもたらされますが、今日のお話は、ラザロの肉体の復活です。イエス様が神様から遣わされたことを知らせるため、「イエス様を信じる者が、永遠の命を得る」ことを伝えるために、イエス様はラザロを復活させたのです。
さて、イエス様がベタニア村に着いた時には、ラザロは死んでいてすでに4日が経っていました。ラザロの姉マルタはイエス様が来たと聞いて、迎えに行きますが、イエス様に会うと、こう 言います。『11:21 ~「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。』
この言葉には、イエス様がいてくれたら、治っただろうとの信仰があります。一方で、弟が死んでしまっては、イエス様であっても もうどうしようもないというあきらめもあるようです。そのマルタにイエス様は言います。
『11:23~あなたの兄弟は復活する』
これを聞いたマルタは、「終わりの日の復活」のことだと思いました。ラザロが今すぐ復活するとは思わなかったのです。マルタは、当時のユダヤ人が信じていた通り「人が死ねば陰府に行ってそこに眠り、終末の時に復活する」と思っているのです。この復活の希望は、「終末の時に」、「いつかは」、といった漠然としたものです。しかし、イエス様が言ったのは、「今、現在のよみがえり」です。イエス様は言います。
ヨハネ『11:25 ~「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。11:26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」』
するとマルタは答えます。『11:27 ~「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」』
マルタは、信じておりますとは答えましたが、イエス様の問いには答えていません。彼女は弟ラザロが、今ここでよみがえるとは思っていなかったのです。死んだ者が生き返る、そんなことが起こるとは、彼女の想像できる範囲を超えていました。なぜなら、死は私たちにとって乗り越えられないものだからです。死は全てを過去のものとしてしまいます。人間にとってはどうしようもない定めであります。
イエス様は言いました。『11:25~わたしは復活であり、命である。~ このことを信じるか。』
マルタは、「はい~」とは答えましたが、ラザロが今生き返るとは思っていません。ラザロが死んでもう4日も経っているからです。イエス様でも、復活させるのは無理だと・・・そう思っていました。マルタは、弟ラザロの死を受け入れ始めていたのです。しかし、マリアは違いました。マルタが呼ぶと、マリアはイエス様のところにいそいで行きます。そして『11:32 ~イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。』この言葉は、マルタとほぼ一緒です。しかし、マリアは、悲しみに打ち負かされ、そして泣きました。すると、
『11:33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、11:34 言われた。「どこに葬ったのか。」』
イエス様が憤ったとありますが、この部分を直訳してみますと、「イエス様は、心の中で鼻を鳴らしてうめき」となります。イエス様は、身震いしながら慟哭して、ラザロの墓への案内を求めたのです。
イエス様は、マリアと群衆が、ラザロの死を受け入れられられずに悲しんでいるのを見て、心が揺さぶられたのです。
『11:35 イエスは涙を流された。11:36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。11:37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。』
再びイエス様は心の中で鼻を鳴らしてうめきながら、墓まで来ました。そしてマルタに墓の石を取り除くように言います。すると、マルタは答えます。『11:39~主よ、四日もたっていますから、もうにおいます』
このマルタの否定的な発言には、希望がありません。完全にあきらめている様子です。マルタは、ラザロの復活を そしてイエス様の言葉を信じていなかったのです。イエス様は、そんなマルタを叱ります。
『11:40~「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」~』。
人々が石を取り除いたのを見て、イエス様は墓に向かって呼ばわりました。『11:43~ラザロ、出てきなさい』。
すると、死んで葬られたラザロが、手と足を布で巻かれたままの姿で出てきました。
この復活の物語を皆さんはどのように受け取るでしょうか? 真実だ とか神話でしかないとか と 意見は分かれるでしょう。また、「マリアと群衆がラザロの死を悲しんで泣くのを見て、イエス様が、一緒に激しく泣いた」このことを心にとめる人もいるでしょう。寄り添ってくださるイエス様。これは真実です。問題は、死んだ人が生き返ることです。イエス様の起こした最も偉大な奇跡は、死んだ人の生き返りです。ラザロだけではなく、イエス様ご自身もこの後に、一度死んで復活しました。しかし、事実だと証明する証拠はありません。同じように、この復活の物語も、意見が分かれます。本当に奇跡が起こったと受け入れる人もいます。また、伝承でしかないと、事実ではないと思う人もいます。あるいは、ラザロがマリアと群衆のなかに今も生きている そう理解することもできるわけです。また、極端には、「神様に祈れば、死んだ人がよみがえる」と真剣に、復活を祈る。そういう人もいます。・・・その祈りには、たとえ生き返らなかったとしても希望があります。その祈りによって、神様の平安が与えられるからです。
ところで、奇跡の出来事とあわせて、この記事が伝えている事は、41節のイエス様の「祈り」つまり「救い主としての証し」であります。
『11:41~「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。11:42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」』
この言葉の背景には、イエス様とマルタのやり取りがあります。マルタの妹マリアは、ラザロが死んで四日たっても、悲しんで泣いていました。イエス様も思わず心が揺さぶられ、一緒に泣いてしまったほどです。一方で、マルタはすでに冷静でした。そして、「あなたの兄弟は復活する」と言ってくださるイエス様のことを、言葉では「信じます」と言いますが、信じていないのです。イエス様は、この信仰の弱いマルタや群衆がイエス様を信じるようにと、ラザロの復活を願って神様に祈りました。
また、イエス様はマルタに『「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。』と言いました。この「命」ですが、(「ゾーエー:ζωή」という言葉を使っています。)先ほどの「生きる」の名詞形です。ギリシャ語の「命」には「ビオス:βίος 」と「ゾーエー」の二つがあります。ビオスとは英語のライフ(生涯、生活)と同様に「肉体的な命」の意味、ゾーエーはそれに「人格的な命」の意味が加わります。(参考までに、新約聖書で「永遠の命」とあるところは、この人格的な命の方が使われています。)この福音書に書かれているのは、肉体的ではない、人格的な命のよみがえりです。伝えたいのは、ラザロの肉体的なよみがえりではありません。(肉体的によみがえっても再び死ぬから、永遠の命とはならない) イエス様が、マルタに「信じるか?」と問いかけている。そのことを聖書は語っているのです。イエス様は、この後、十字架上で死にました。そのイエス様は復活して今も、私たちに「信じるか?」と問いかけている。それが福音です。
復活信仰はキリスト教の核心です。今日、召天者記念礼拝を守っていますが、この信仰の先輩方はみな、イエス様が十字架にかけられ、その死によってわたしたちの罪を贖ってくださったと信じています。また、イエス様の贖いのゆえに罪が赦され、永遠の命をいただきました。だから、皆「イエス様の復活を信じます」 と告白して、クリスチャンになりました。そして、いまも信仰の先輩方の「人格的な命」は生きて、天の国でイエス様と共にあるのです。
「イエス様の愛が彼らを復活させた」、イエス様の愛は、ラザロのよみがえりを通して、悲しみに沈むマリアの「この世での命」をも復活させました。また、信仰の弱いマルタそして群衆のために、「わたしは復活であり、命である。」ことを示しました。そして「私を信じる者は、たとえ死んでも生きる。このことを信じるか」と問いかけているのです。福音、良き訪れとは、私たちの「人格的な命」が生き続けることを信じることです。復活を愚だと、切り捨てることは簡単です。しかし、この復活の出来事の中にイエス様の愛と真理があるのです。このイエス様の愛に身を預けて、信じる者となってまいりましょう。