Ⅰテサロニケは、使徒パウロの書簡の中でも もっとも早い時期、おそらく紀元50年から52年の終わりまでに書かれたものであるとされています。執筆の場所はコリントと推定されます。テサロニケにキリスト教を布教したのは、パウロが最初です。その後テモテをマケドニアに残してコリントに向かいました。この書簡は、テモテがマケドニアからコリントのパウロのもとへ戻り、テサロニケの教会の様子を知ったパウロが書いたと考えられます(『使徒言行録』18:1-5、一テサロ3:6参照)。この書簡全体を通してパウロは、テサロニケのキリスト教徒たちを激励しています。
マケドニア州:ローマの属州で現在はギリシャの北部地方。当時はテサロニケにギリシャとマケドニアとアカイアを合わせた地域(現在のギリシャ)の第二の都市(第一位はアテネ)があり、アジア州への交通の要所でありました。
アカイア州:コリントの街があるギリシャ南部の半島全体がアカイア州で、エーゲ海とアドリア海の間の海運の要所でありました。
1.挨拶
手紙の送り手として、パウロ、シルワノ(使徒言行録ではシラス)、テモテの名前が記されています。しかし、この手紙を書いたのはパウロです。シルワノとテモテはこの手紙が書かれた時点ではパウロのもとにいました。彼らの名前がパウロと共に列挙されていることから、彼らが手紙を見てその内容を確認したことがわかります。シルワノとテモテの名前が記されているのは、テサロニケ教会の信徒たちが彼らと近い関係にあったからでもあります。
2.主に倣う者
パウロは同僚と共にテサロニケの信徒のために祈っていました。なによりもまず感謝の祈りです。テサロニケ教会のためのすべての善き業について、パウロは神様に感謝します。テサロニケの信徒たちは、信仰によって、神様の御心に適うよう教会で働きました。キリスト者として、テサロニケ教会の信徒たちは、人々を愛し、最善の努力をしました。そして、テサロニケの信徒たちは、イエス様がこの世に帰ってこられる再臨の時を忍耐強く待ち望んでいます。ここで、テサロニケ教会の良好な働きや状況について、パウロが感謝を述べている相手が教会や信徒たちではないことに注目しましょう。感謝を受けるべきなのは、ほかならぬ神様なのです。神様がテサロニケ教会のために、共にいて導いてくださったおかげで、このテサロニケの教会は困難の只中にあっても、よい働きとよい状況を保つことができたのです。
パウロはテサロニケ教会の誕生のいきさつについて語ります。同僚と共にパウロはテサロニケで、十字架で死に三日目に復活されたイエス様についての福音を宣べ伝えました。神様は御言葉を語るパウロを通して人々に働きかけました。そして、パウロが宣べ伝えていることを、多くの住民を受けとさせ真実であることを確信させます。聖霊がテサロニケの人々をイエス様への信仰へと導いたおかげで、福音を聴いた人々の多くはバプテスマを受けました。こうして、テサロニケにはキリスト教徒の教会が誕生したのです。
信仰に入った者たちの中からは、パウロや彼の同僚と同じく「1:6~主に倣う者~」が出てきました。この言葉でパウロが言っているのは、「信仰を持った人々が、パウロと同じように伝道者として歩み始めた」、ということです。そして、「マケドニア州とアカイア州の教会の全ての信者の模範となった」とほめています。そのことは、特定の地域の信徒たちの励ましになっただけではなく、彼らが「主に倣ったこと」自体が、キリスト者としての証しとなりました。
教会の誕生に関するパウロの表現は、大事です。パウロは、神様による選びから始まり、人々が主に倣う者になるまでの全ては神様への感謝を語っていることに注目したのです。実際の伝道においては、パウロのメッセージによってテサロニケの数人の住民が信仰の道に入ったのが最初でした。そして、教会となることを自ら決意した。こういう順序でテサロニケ教会が誕生したように見えます。しかし、教会を作ったのは神様です。神様は、テサロニケの人々に信仰の賜物を与えて、キリスト者としました。そして、キリスト者に教会を作る信仰の賜物を与えたのです。神様の「御心」は、テサロニケに教会を作ることでした。そして、テサロニケの信徒が主に倣う者となることが「御心」でした、ということです。教会の誕生は人間によるものではなく、神様の御業です。まさにそれだから、教会は固く立つのです。