マタイ13:24-58
「天の国」を共に
「天の国」を共に
畑の宝と、真珠の譬えは、対になっています。どちらも、持ち物をすっかり売り払ってでも、手に入れるだろうというお話です。天国は、それだけ価値があるということでしょう。また、網の魚は 裁きのことを譬えています。天の国では、悪い者どもはより分けられ、燃え盛る炉の中に投げ込まれるのです。
1.天の国の価値
どうしても手に入れたい、いや、この機会を失いたくない。だから、すぐに動く。それは天の国の価値を表しています。イエス様は、「天の国」つまり父なる神様の救いのご計画を、そのように譬えました。もし、救いのご計画より 今の自分の持っているものが大事で失えないと思うなら、天の国に入ることはできないのです。また、天の国に気が付いていたけれど、何とかして手に入れようとしないならば、やはり天の国に入ることはできません。畑の宝もよい真珠も、一度見たならば、全てを打ち捨ててそして財産を売り払って、手に入れなければ、二度とこのような機会に出くわすことはないでしょう。それは今の自分の生活を失ってでも、手に入れたい宝です。だから他人の畑で見つけた宝を、失わないために隠しました。どうしても失いたくないからです。本来、正直に畑の持ち主に宝があることを教えるべきところですが、その道徳的なことを無視してまで、手に入れたいものだとイエス様は、教えているわけです。もちろん、隠さなくてもその宝を手に入れることが確約されているのなら、隠さないはずです。ここは、あくまでも譬えですから、本質的には、「どうしても欲しくて、手段を選ばずに、全てを投げ打ってでも手に入れたかった」ことを表現しただけだと思います。
ところで、だれでも今の生活を持っています。今の自分が持っている家族、人間関係や持ち物、お金など、様々な価値のあるものを持っています。今の自分が持っている生き方。これが大切だと思い、これを絶対に失いたくないと思っているでしょう。でも、ある日、それらを失っても良いと思えるほどの宝に出会うわけです。それまで自分には隠されていた宝を見つけたら、人生がガラッと変わるのです。今の自分が持っているものを全て失ってでも、この宝を手に入れたいと・・・。
宝とは、イエス様の十字架の犠牲によってもたらされる、救いであります。罪深い私たちは、このイエス様が私たちの罪の代償として死んだことによって、この宝はもたらされました。イエス様を信じることによって、罪深い私たちの罪は赦されたのです。
だから、今の自分の人生と価値観は、その宝によって人生が方向転換するほど、変わるのです。そして、天の父である神様の支配のもとに私たちは身を置くのです。その宝が欲しい私たちは、どうするでしょうか? すべてを捨てる覚悟で、イエス様を信じ(believe)て、託する(trust)ことが求められていますし、宝が目の前にあるうちに、その決断をしなければなりません。
ところで、今の自分を失いたくないのは、事実だと思います。ですから、自分もある意味宝なのであります。畑の宝と自分の宝とどっちが大事であるか?それは、価値の大きい方なのでしょう。改めて、今の自分を失ってでも、どうしても手に入れたい物。それは、今の自分を捨てるほどの価値があるということです。自分を捨てたら、そこに何も残らないのではなく、自分自身が今までよりも高められる。そう信じるならば、躊躇なく、自分を捨てるでしょう。一方で、それでも「自分の一部でも失いたくない」ならば、まったくこの宝を手に入れようとはしないでしょう。だから、その畑の宝を手に入れようとすることは、「天の国」を信じて託する、そして、イエス様を信じて託することなのです。そこに救いの喜びを見るとも言えます。自分も喜んでいる。でも、その私たちを見て天の父が喜んでいる。それが天の父である神様の望むところなのだと思います。
手に入れたい宝のほうが、より価値があると感じるのは、喜びの大きさによります。「良い真珠」を見て「良い」と実感するのは、父なる神様の支配、神様への信頼があってこそです。神様が、救いの喜びを準備してくださっていることを信じるからこそ、神様の支配に与ることができるのです。
2.裁き
もし、救いを自分だけの話と考え、自分と畑の宝を秤にかけていろいろ考えたならば、「天の国」にはいる機会を失うでしょう。つまり、自分は善を多く行っていると主張して、「天の国」に自分は入れると判断したと考えてください。これでは、絶対的な神様を認めずに、自分を神に祭り上げているのと変わりがありません。裁かれる立場にありながら、いつの間にかに裁く側に立って、そして自己満足な判決を下しているにすぎないからです。神様との関係に思いを向けずに、自分の思いだけで神様からのプレゼントを価値の低いものと誤解したならば、「天の国」には入れません。
三つ目の譬えで「悪い」と言われている魚で分かると思います。悪い魚の「悪い」とは、善悪の悪いではありません。売れない魚は悪い魚です。たとえば、鮮度が落ちている。小さい。傷物。つまり、食用に向かない魚は、全て放り投げられるのです。そこには、明確な基準があります。同じように「天の国」に入る基準があります。イエス様を信じて信仰を告白することです。
父なる神様は、私たちがイエス様を受け入れて信じると、私たちの罪をイエス様の十字架に貼り付けにしてしまいます。イエス様が私たちの身代わりになって、罪を取り消してくださるのです。イエス様を受け入れて、信仰を告白し、バプテスマによって清められると、私たちは、「神の子たち」となります。
父なる神様のご支配を何よりも先ず求め、イエス様を信じて従う。そこに、隠されていた「畑の宝」つまり「天の国」に入る喜びの人生があるからです。