2025年 10月 19日 主日礼拝
『神様はあなたを招いています』
聖書 ローマの信徒への手紙4:1-12
今日は、ローマの信徒への手紙からのお話です。皆さんには、パウロの言葉はどのように届いているでしょうか? 一般に、パウロは熱い人で、そして、難しい事を言うような印象があると思います。今日の記事も、難しくて、一度読んですぐに頭に入るような内容ではありません。そもそも、パウロの教えがわかりにくいと感じる理由が、いくつかあります。旧約聖書、ユダヤ教の律法に関する知識を前提として語られていること。手紙という形式のため、相手と共有している情報は、書かれていないことなどです。そして、キリスト教の根本的な教えを扱っていること。この三つがわかりにくいとされる要因です。
さて、今日の聖書はこの言葉が端緒となっています。
ローマ『3:31 それでは、わたしたちは信仰によって、律法を無にするのか。決してそうではない。むしろ、律法を確立するのです。』
なぜ、パウロがこのようなことをテーマに議論しなければならなかったのか? それは、「律法によってではなく、信仰によって義とされる」とのパウロの教えにあります。ユダヤ人から見るとパウロの教えが、『ユダヤ人が守って来た律法を、「意味がない」』と 否定したように聞こえたからです。ユダヤ人たちは、当然パウロに抗議するわけです。そこでパウロは、律法を否定しているのではなく、「信仰によって律法が確立される」と、説明しました。
その説明のために、パウロはアブラハムのことを、話します。なぜならば、「律法がない時代に、アブラハムは信仰によって義とされた」からです。
『4:1 では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。4:2 もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。4:3 聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。』
「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」この記事を創世記から探してみますと、15:6にあります。その前に、神様のアブラハムに向けたこの約束がありました。
創世記『13:15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。13:16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。』
この約束は、アブラハムがエジプトを出て、ロトと別れた場面で、神様が一方的に宣言したものです。ロトは、アブラハムの甥です。ロトの子孫はアンモン人やモアブ人となりました。つまり、アブラハムの子孫を増やすとの約束は、イスラエル民族への祝福を意味するのです。
このときアブラハムは、神様から、「大地の砂粒のように子孫を増やす」と約束をしてもらいました。また、「見る」ことは、イスラエルの民特有の理解ですが、すでに手に入ったことを指します。ですから、神様がアブラハムに見える限りの土地を見せたのは、必ずアブラハムにこの土地を与え、子孫を繁栄させるとの 堅い約束だということです。
そして後に、再び神様の言葉がありました。「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。(創世記15:1)」。しかしながら、アブラハムはこの神様の言葉に不満でした。アブラハムには、家を継ぐべき子供がいなかったからです。そこで、「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。(創世記15:2)」と言って、「大地の砂粒のように子孫を増やす」との約束がまだ果たされていない ことを問い詰めたのです。そこで、
創世記『15:5 主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」15:6 アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』
このとき、アブラハムは再度「子孫を増やす」と約束した神様を信じました。それで、神様はアブラハムを義としたのです。この文脈で明らかなように、アブラハムは、「神様の約束が信じられない」と訴えたのです。すると、神様はアブラハムに空いっぱいの星を見せ、「子孫を増やす」と再び約束した。そして、この神様の約束をアブラハムは受け入れた。と言うことです。
特別に何か、アブラハムの側に強い信仰があったか?と言うとそうではないのです。神様を信じることができなくなっていた彼に、神様は語りかけました。そのとき、同じ約束をもう一度してくださったのです。その神様にアブラハムは「信じます」と受け入れた。それだけです。
聖書が描く、「信仰」とは、神様の「真実」に対する応答です。「信仰」を意味するギリシャ語のピスティスは「真実さ、信頼性」(英語の faithfullness, reliability)とも訳されます。聖書の記している信仰とは、「神様は信頼できるお方だ」と認めることなのです。
(申命記『7:9 あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを。~』)
信仰は、神様の「真実さ」から生まれる私たちの「応答」です。決して、人間が自分の力で生み出すものではないのです。だから、アブラハムの信仰は、彼自身が誇れるもの ではありません。また、「アブラハムが神様を信じた」のは、「神様の約束に信頼できなくなったときに、再び神様は約束してくださった。つまり、この私に向き合ってくださる神様を信じた。」ということです。
ここで言いたいのは、「アブラハムの信仰がすばらしい」ことではありません。アブラハムの疑問に神様が真正面から答えたがために、アブラハムは神様の約束を再び信じた。その信仰をくださったのは神様。神様の「真実」によって、アブラハムの信仰が導かれたのです。
『4:4 ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。4:5 しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。』
働く者への報酬は、当然支払われるべきなのですが、パウロはここで「働かなくても報酬を得られる恵み」について語ります。恵みを与えるのは「不信心な者を義とされる方」つまり神様です。恵みを受けるのは「神様を信じる者」であり、そもそも「不信心な者」だったはずです。つまり、神様は「不信心な者」を義とされる方であり、神様を信じた人の信仰に「報いるべき働き」が特にないのに、今、神様を信じたことをもって義とされるのです。
ここで、「不信心な者を義とする」とは、神様が「不信心な者を裁くこと」を止めてしまうほどの、「圧倒的な」恵みです。そしてその恵みが、不信心に陥ったアブラハムの信仰を回復させました。だから、「信仰」という私たちの「てがら」が認められて、義とされるのではありません。
そこでパウロは、こう言います。
『4:6 同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています。 4:7 「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。 4:8 主から罪があると見なされない人は、/幸いである。」』
ここで引用された聖書は、ダビデが家来ウリヤの妻バテシェバを奪った罪を告白したときの歌、神様の赦しへの感謝を歌ったものです。(詩編32:1-2)
この詩編を読むと、ダビデが作ったからでしょうか? ダビデが良心の呵責に苦しんで、自分から罪を告白したかのような印象を持ってしまいます。しかし、実際は、心を痛めた神様が、預言者ナタンを遣わして、ダビデを悔い改めさせたのです。(サムエル下12章) 確かにダビデは自分の罪を隠していたときには痛み苦しんだのでしょうが (詩篇32:3、4)、「私の背きを主 (ヤハウェ) に告白しよう」(詩篇32:5) と思ったのは、預言者ナタンに指摘された後でした。
と言うことで、ダビデが受けた「罪の赦し」は、彼の「悔い改め」に対する神様からの報酬・・・ではありません。それはすべて、ダビデを王として立てた神様からの一方的な恵みと憐みなのです。・・・ですから今日の聖書の核心は、「行いではなく、信仰によって、義と認められた」ではないのです。行いや信仰のご褒美として「義とされる」のではないからです。アブラハムやダビデには、義と認められるような「働き(行い)」はありませんでした。しかし、神様はその一方的な恵みを下さった。そして、この二人はその恵みを受け入れたのです。ですから、アブラハムやダビデが義とされたのは、圧倒的な神様の恵みを受け入れたと言う、受け身の信仰だったのです。
パウロが示したように、アブラハムとダビデの「信仰」は、決して、立派な信仰ではありませんでした。そのことをもってパウロは、こう言います。
『4:5~不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。』と。
それは、不信心な者をも、信仰に導いてくださる神様。そういう神様に信頼することで義と認められるのだと。「すばらしく信仰が強い人を義と認める」のではなく、神様は信仰のない者も「義と認められる」ように信仰を下さるのです。そこには、私たちの功績は何も問われていません。ただ、神様とイエス様の「真実」に身を任せることが、「義と認められる」のです。
パウロは、割礼についても同様に教えます。律法ができる前、そしてアブラハムが割礼を受ける前に、アブラハムは義とされました。(割礼が登場するのは創世記17:10なので、義とされる15章のあと)
アブラハムを義とした神様は、13年間の沈黙の後、アブラハムの前に現れて、割礼を命じ、その後イサクの誕生を告げます。ここでの「割礼」とは、「信仰によって義とされたことの証印」または「しるし」であると言われます。つまり、割礼は、神様の約束を見失いそうなアブラハムとその子孫に主の契約を思い起こさせるための「しるし」だった と言えます。しかも、アブラハムが無割礼の時代に「彼の信仰が義と認められた」のです。このことは、「異邦人が無割礼のままで、神様の前に義と認められる」ことの「しるし」でもあります。
善い行いではなく、「信仰によって義と認められた」模範として、アブラハムやダビデの例をパウロは挙げました。ここで引用されている一人は、神様の約束を信じられなくなっていた。そしてもう一人は、神様の教えに背いたのです。「目に見えない神様を信じられなくなったり、神様に背いたりする」のは、私たちも同じです。そんな私たちですが、目に見えない神様に信頼し、歩もうとする。それが、信仰なのです。何よりも大切なのは、「信じたい……」という自分の思いを受けとめ、不信仰な自分を神様に委ねる。そのような祈りを大事にしましょう。いつも、神様はあなたを招いています。そして、あなたを義としようとしています。このことを歓んで受け入れてください。