2025年 4月 6日 主日礼拝
『イエスの証』
聖書 ヨハネの黙示録19:1-10
受難節第三週になりました。 今日は、ヨハネの黙示録からです。今日の聖書箇所は、新約聖書の中でもかなり知られていると思います。それは、19章6節の「賛美 ハレルヤ」です。かのイギリスで活躍した作曲家ヘンデル(脚本家:チャールズ・ジェネンズ)は、この賛美を「メサイア」のハレルヤコーラスに使いました。メサイアとは、メシアの英語読みです。日本語で言うと救世主ですね。ところで、メサイアって クリスマスに演奏するんじゃないの?と この曲のことをよく知っている人は言うかもしれません。しかし、もともとメサイアは受難週やイースターのために作られた曲です。もちろん、メサイアは預言に始まって、イエス様の一生と復活を賛美し、そしてアーメンで終わる曲なので、どの季節でなければならないということはありません。
さて、黙示録ですが、冒頭にこのように書かれています。
黙示録『1:1 イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストにお与えになり、そして、キリストがその天使を送って僕ヨハネにお伝えになったものである。』
この記事から、「黙示録の中でわたしと書かれているのはヨハネ」だと言うことになります。そしてヨハネと話をしているのは、イエス様が送った天使だということです。ヨハネは、この天使に見せてもらった光景や示された言葉を黙示録に書いたのです。そして、黙示録の背景にはヨハネの時代の大迫害があります。その艱難の時に、信徒たちに希望の光を与えたのが、ヨハネが書いた黙示録でした。そこには、艱難からの解放の預言である、バビロンの滅亡(18章)が示されています。そして、黙示録は、今日のイエス様の証し、小羊の婚姻へと展開していくわけです。
王座の前に居るヨハネに、ハレルヤとの賛美の声が響きます。「ハレルヤ」は、聖書のなかでは詩編と、この黙示録の19章だけに使われています。このハレルヤですが、ヘブライ語で「ヤー(=神)を賛美せよ」を意味します。長い間艱難にあっていたイスラエルの民が、イエス様の再臨によって、いよいよ神の国を迎える。だから、「神を賛美せよ」それが「ハレル、ヤー」なのです。
今日の箇所での、中心は小羊の婚姻です。その構成は、三つです。「天における大群衆の賛美」(1~3節)と「24人の長老と4つの生き物の礼拝」(4~5節)そして「小羊の婚姻と婚宴」です。ここで、小羊とはイエス様のことです。そして小羊の花嫁となるのは教会なのです。当時の、ユダヤの結婚は、準備のための期間が長くありました。 子供の時に婚約をするわけですから、大人になって経済的に自立をし、実際に結婚するときまで、長い長い婚約の期間があるわけです。黙示録では、そのイエス様と教会の結婚までの準備の期間を、バビロンによる迫害の時代と対比しています。ユダヤの人々は、その長い間耐えて、信仰を保ちました。そして、いよいよ大バビロンが滅びるわけです。そのことは、預言者イザヤが預言していました。
イザヤ『21:9 見よ、あそこにやって来た/二頭立ての戦車を駆る者が。」その人は叫んで、言った。「倒れた、倒れた、バビロンが。神々の像はすべて砕かれ、地に落ちた。」』
ところで・・・、ヨハネが黙示録を書いた時は、バビロンが滅びて700年もたっています。ですから、大バビロンとは、新バビロニア帝国のことではなく、悪の住処を象徴したものであります。「バビロン」は古代国家バビロンのことではありますが、新約聖書では特に「この世的な権力や、異教の神々の象徴」として、しばしば使われています。バビロンは偶像崇拝、そして道徳的な腐敗の象徴なのです。特に黙示録では、バビロンは人間のおごり高ぶりと、神様に対する反逆の象徴として描かれています。つまり、黙示録の中で、大バビロンとはローマ社会を指していて、そのローマの滅亡を預言しているのです。「大淫婦(ポルネー:πόρνη)」(2節、3節)とあるのは、(「売る」という意味から出た)偶像礼拝を指す言葉です。その偶像礼拝のローマが滅亡した後に、小羊の婚姻となるわけです。
ハレルヤとの賛美は、神様がローマを滅ぼすことを歌っています。ユダヤと宗教的に対立し、そして多くのキリスト教の信徒たちの血を流したローマは、神様によって滅ぼされるのです。それは、殉教していった者たちの祈り(黙示6:10)を聞いた神様の業でした。 ローマの滅亡により、大群衆は神様を賛美しました。そのあと、二十四人の長老と四つの生き物が神様を礼拝します。(4~5節)
二十四の長老とは、各地にできた教会をさします。四つの生き物とは、獣のような姿の天使だといわれています。そして、王座から「神を賛美せよ」との声が聞こえてきます。(この王座からの声は、だれの声なのか不明です。)その声をきっかけとして、大群衆の賛美が始まりました。
『19:6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ、/全能者であり、/わたしたちの神である主が王となられた。』
大群衆は、艱難時代に殉教した信徒たちですが、そこに水の音、激しい雷鳴があがっています。この音と声は、天使たちからのものです。そしてここで、4番目のハレルヤです。
「主を賛美せよ、全能の神であり、主である神がこの国を治める」
主と訳されているところは、ヘブライ語の聖書では、神様の名前「ヤハウェ」と書かれています。みだりに神様の名を呼んではいけないので、「ヤハウェ」を「アドナイ」(わが主 の意)と読み替えていたものです。神の国がやってきて、イエス様がその国を治める時がやってくる。この時の賛美ハレルヤが、キリスト教の迫害に苦しむ信者たちへ向けた、希望なのです。
『19:7 わたしたちは喜び、大いに喜び、/神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、/花嫁は用意を整えた。』
ここでも、イエス様と教会の関係が、結婚にたとえられています。花婿は、小羊であるイエス様。花嫁は、教会です。イエス様を信じた人は、みな花嫁となります。いよいよ、教会の準備が整うと、イエス様が再臨するときとなります。その時、イエス様を信じる者はみな喜んで、神様をたたえます。イエス様が王となって地上に再臨するからです。そのときに、花嫁である教会が小羊、つまりイエス・キリストとの結婚式を挙げるのです。
なぜキリスト教の信者が花嫁なのかと言いますと、イエス様を信じる人は霊において、イエス様とつながっているからです。イエス様が十字架で死んだときに、私たちの古い人も葬られました。そして三日目にイエス様ががよみがえったように、私たちも聖霊によって新たに生まれました。キリストに結ばれた者となったのです。ですから、すでにわたしたちの「うち」にキリストが住んでいます。そして、私たちは、わたしたちの「うち」にイエス様がいることを証しするのです。
『19:8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、/聖なる者たちの正しい行いである。」』
この時、イエス様を信じる者は、神の栄光を表すために、罪のないことを象徴する清い麻の衣を着せられます。聖なるものとは、真に「義とされた」者です。神の恵みによって、義とされるのです。そのとき、花嫁が受けるのは、「キリストのさばき」です。 キリストのさばきによって、義とされた者が小羊との婚姻にあずかります。
『19:9 それから天使はわたしに、「書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ」と言い、また、「これは、神の真実の言葉である」とも言った。』
小羊の婚宴は、千年王国が建設される前の地上でのことです。招待客は招かれていますが、まだ婚宴は始まっていません。招待客は、信者たちであり、殉教者たちです。かれらは、千年王国に招かれているのです。そして天使は宣言します。その宣言した「神の真実の言葉」とは、「神様が語ったことは、すべて成就する」という 神様への信頼を示しています。
『19:10 わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。「やめよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」』
ヨハネは、イエス様が送った天使を拝もうとしました。しかし、天使は、それを止めさせます。礼拝すべきは神様だけなのです。そして「イエスの証しは預言の霊なのだ」と言います。預言の霊とは、聖霊(二ペト1:21)のことです。聖霊は、人々がイエス様の証しを語るために、導いてくれるのです。だから、イエス様の証しは、人の言葉ではありません。聖霊に導かれた人々が神様からの言葉を語るのです。そして、今も聖霊は、イエス様の証しのために働いています。
預言は、「未来を言い当てる」事ではなくて、あくまでもイエス様を証しするものです。神様の霊によって与えられる言葉です。聖霊によって与えられる預言は、イエス・キリストのことであり、イエス・キリストの栄光を表すものです。ですから、このみ言葉を読み聞きすることは、イエス・キリストに祈り求めることと同じなのです。イエス様に祈れば、み言葉が入ってくるのです。しかし、残念なことは、私たちは完全に理解はできません。それでも、一生をかけて、求めてまいりましょう。そうして、少しづつ、み言葉の恵みをいただくのです。