2024年 9月 1日 主日礼拝
『み言葉にとどまる』
聖書 ヨハネによる福音書8:31-47
今日は、聖書のなかでも、よく知られている言葉「真理はあなたたちを自由にする。」について「イエス様のみ言葉」からお話しします。この「真理はあなたたちを自由にする。」は、一般的には、理性の偉大さを称えていると言えます。さらに、「真理」ですから、その位置づけは、学問や知識のレベルよりも高い次元にあります。つまり「真理」のもとに理性があり、それが学問や知識にあたるのだとと思います。たしかに学問や知識による自然科学や人文科学は、人間の生活の豊かさを高めるものです。人間が無知の闇から理性の明るみに入るために、学問や知識は、便利な道具となります。その道具を使うと、日に日に、できなかったことができるようになるのです。手探りで経験を積むところから初めて、学問と知識を体系づけしていけば、人間の生活はしだいに便利になります。と言うことで、理性によって昨日までできなかったことから解放されるのです。それは、理性によって得た自由であります。ですから「理性はあなた方を自由にする。」のです。
このように「真理」を理性と置き換えて読んでも、この世的な意味として成り立ちます。一方で、「真理」は、神様に属します。そこで、「真理はあなたたちを自由にする。」が示す宗教的な意味を、確認したいと思います。
ここで、真理と訳されている言葉(アレティア(ἀλήθεια))の意味は真実です。元々のニュアンスとしては、事実に忠実であることであり、幻や偽りの反対語であります。ですから、福音書に使われている真理。この言葉の意味は、①客観的に事実であって、虚偽でない事。②神様の真実 を指します。そして次に確認したい言葉は、「自由にする」(エリューセロー(ἐλευθερόω))です。元の意味は、「罪の束縛からの解放」ですから、「神様の真実を知ったあなたたちは罪から解放される」と読み取ることが出来ます。
そもそも、この言葉はイエス様を信じた人に向かって語られていました。その証拠に、今日の聖書箇所の直前に、こんな記事があります。
ヨハネ『8:28 そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。8:29 わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」8:30 これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。』
少しだけ解説しますと、イエス様が「わたしはある」(出3:14)という存在、つまり神様であると語り、イエス様を「多くの人々が信じた」のです。
だから、イエス様は次のように教えています。
『8:31「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。8:32 あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」』 つまり、信じたらならば、私の言葉にとどまりなさい と言うことです。
もっと、厳しい言い方をすれば、「わたしの言葉にとどまらなければ、わたしの弟子ではないので、あなたたちは真理を知ることはなく、罪に縛られたままなのだ。」と語ったのです。このイエス様の言葉に、イエス様を信じた人々はとまどいます。イエス様を信じた人々は、「自分たちは真理を知っている」と思っているからです。神様に選ばれた民である、アブラハムを先祖とするイスラエルの民は、神様のことを良く知っています。そしてその神様こそが真理そのものであることも、知っているのです。誰よりも神様を、そして真理を知っているはずのイスラエルの民が、真理を知らない?、そして罪に縛られている? イスラエルの民は、そうは思っていませんでした。
『8:33 すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」』 と言って 彼らは、反発しました。
旧約聖書の時代、神様はアブラハムを選びました。そしてそのアブラハムのみならずその子孫であるイスラエルを特別に選んだのです。だからイスラエルの民は、神様の祝福を約束されていました。それ以来、長年にわたって、イスラエルの人々は「アブラハムの子孫であること」、「神様から特別に選ばれていること」を誇りにしてきたのです。一方で、歴史的にはイスラエルという民族、そして国家は、独立もままならない弱弱しい存在でありました。イスラエルが神様に背き、その結果としてバビロンで奴隷のような状態になった時もありました。そして、イエス様の時代は、ローマ帝国に支配されていたのです。しかしそのような政治的な弱者であるにも関わらず、イスラエルはそのアブラハムに始まった神様の民であることを誇りにしていました。しかも、彼らは自由人です。・・・それなのに罪の奴隷だ とイエス様は言ったのです。
『8:34 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。8:35 奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。8:36 だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。』
教会では、罪の奴隷という言葉を使います。罪とは、神様を知らないこと、そして罪の奴隷とは、神様でないものに従う者です。わたしたちがそう言う者であったことは、皆さん覚えがあると思います。そして、その罪の奴隷であったわたしたちは、神様の家にとどまる自由がありませんでした。奴隷はいつでも、主人の意志で売り飛ばされるからです。だから、奴隷にとって主人の家は自分の家ではありません。また、奴隷は自分のいる場所を自分で選ぶこともできません。しかし、罪の奴隷であることをやめ、神様の子となるならば、神様の家にいることができるのです。そのために、イエス様が、わたしたちを罪から解放して、自由にして下さるのです。
では奴隷でなくなったとき、つまり罪から自由になったら、住む家を自由に選べるのか?もしくは主人となって新しく家を持てるのか?と言うとそうではありません。神様の子供となって神様の家に住み続けることを望まれているのです。だから、イエス様がとりなしてくださいます。すると神様は、わたしたちを「神の子供のひとり」としてくださるのです。そうして、わたしたちは神様の家に いることができます。また、神様の恵みと慈しみがわたしたちにとどまるのです。逆に、私たちがイエス様の言葉にとどまらずに罪の奴隷であり続けるならば、神様の家にとどまることはできません。
イエス様は、「わたしの言葉にとどまるならば」と語りました。この言葉のニュアンスは、ただ言葉を聞いて理解するだけではなく、行い続けることを意味します。つまり、イエス様を信じたすべての人々に、イエス様の言葉を行い続けることを求めているのです。イエス様を信じることは、それだけでも素晴らしいことです。しかし、「信じる」。「そこで終わってはいけない」。「神様の子供のひとりになりなさい」。そのためには、イエス様の言葉を受け入れ続けることが必要です。わたしたちもまた、過去や未来に一度だけではなく、今現在、イエス様の言葉にとどまっていることが求められています。
そして、イエス様は、イスラエルの民に厳しい言葉で答えました。
『8:37 あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。8:38 わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」』
イエス様を信じた人々に、「あなたたちはわたしを殺そうとしている」と非難するのはなぜでしょうか? 39節以降では、さらに言葉が激しくなります。
『「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。8:40 ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。8:41 あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」』
イエス様を信じた者に対して、「あなたがたは、アブラハムの信仰を引き継ぐ者ではない」、「あなたがたはあなたがたの父の罪を受け継いでいる」とイエス様は言いました。なぜイエス様はここまで言うのでしょうか?。・・・それは、自分自身では罪からのがれられない人の限界を示すためだと思われます。神様を信じている。そう言いながら、人はみ言葉を聞いて、行っていないのです。人は罪深いので、自分の思いに聞いてしまって、イエス様の言葉には従おうとしないのです。うわべは良く見せられても、わたしたちの内側には罪を持ったままだからです。まさに、わたしたちは罪の奴隷なのであります。
それでは、罪を内側に持ったわたしたちは、神様の子供になれないのでしょうか?。いいえ、私たちを神様の子供とするために、そして罪から自由になるためにイエス様はこの世に来たのです。そのことに希望を持ちましょう。
わたしたちは、イエス様を信じています。そこが、信仰の中心です。しかし、わたしたちが信じることに先立って、イエス様が十字架の犠牲になってくださいました。私たちが生まれる前に、イエス様はわたしたちの罪を贖い、帳消しにしてくださったのです。だから、「イエス様を信じることで罪から救われる」その恵みに与ったのです。しかし、信じて「おしまい」なのではありません。神様の家族になることも求められています。私たちがイエス様の言葉にとどまることによって、私たちは、神様の子供となります。そうして、わたしたちは神様の家に住む。それが、神様の計画した福音(良い知らせ)なのであります。この恵みに与るわたしたちは、感謝でいっぱいです。しかし、わたしたちにはイエス様のみ言葉にとどまろうとしても、わたしたち自身に そのような能力はありません。だから、「聞きますからみ言葉を語り続けてください」 と神様に祈って、御言葉を求めてまいりましょう。