1.人の子は、誰に言うの?
エゼキエルのことをエゼキエル書では人の子と呼んでいます。参考までに、新約聖書では、イエス様が自身のことを人の子とよび、信徒を人の子らと複数でよんでいます。
呼びかけているのは神様です。神様はイスラエルの家とあなたの同胞に神様の言葉を伝えるようにエゼキエルに命令します。イスラエルの家とはヤコブを初代とする一族を指します。エゼキエルは第一回のバビロン捕囚で異国にいますから、あなたの同胞とは、捕囚民のことを指すのだと思われます。このころは、まだエルサレムの陥落は免れていたのですが、すでにユダ王国は傀儡(かいらい)政権となり、バビロンの指示に従うしかない状態でした。
2.あやまちから立ち帰ることを願って
イスラエルの家は、過ちに気づいたようです。ちょうどヨシヤ王の時のことを指していると思います。それで、この様に嘆いていると神様は言われるのです。
『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』
神様への背きに気が付いている者たちに対して、神様は立ち帰ることを願っていることを、エゼキエルに伝えます。神様は悪人だからと言って、神様に背いているからと言って、悪人が死んで良いとはお考えではなかったのです。
『わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。』
12節からは、分かりにくいので、逐条的に解説します。
『正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。』
→正しさと悪は、過去にどうあっても、今の自分を救う材料になりませんし、今の自分をつまずかせる材料にもなりません。「今」正しければ救われ、「今」背いていれば自分をつまずかせるのです。
『正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。33:13 正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。』
→だから、過去に正しくても、過ちを犯すなら過去の正しさは帳消しとなって、生きることはありません。もし、神様が『お前は必ず生きる』と言ったとしても、正しい者が不正を行ったとき、その不正のために死にます。その過去の正しさは思い起こされません。
『33:14 また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、33:15 すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。33:16 彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。』
→また、過去に悪を行った人に向かって、神様が『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、正義と恵みの業(質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わない)を行うなら、過去の悪は帳消しとなって、生きます。死ぬことはもはやありません。その過去の悪は思い起こされません。
『33:17 それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。33:18 正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。33:19 また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。33:20 それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」』
→これほどまでに、正しい裁きをされる神様に対して、イスラエルの民は「神の道に背いています」。過去に正しくても神様から離れて異教の神を拝むのならば、彼は死にます。しかし、過去に異教の神を拝んでいても、今神様に立ち帰るなら、彼は生きます。それなのに、「神の道に背いています」。神は言います。イスラエルの民よ、わたしは、立ち帰った者は、裁きません。