創世記18:23-33 

とりなしを聞く神

2022522日主日礼

とりなしを聞く神

 聖書 創世記18:12-33

   おはようございます。今日は、創世記からみ言葉を取り次ぎます。ソドムの町を滅ぼそうとする神様に、アブラハムがとりなしをした物語を取り上げます。ソドムとゴモラとは、創世記にたびたび出てくる町の名前です。かつてはカナン人の領土でした。ソドムとゴモラが何処にあたのかは、詳細にはわかっていませんが、死海の北側周辺または死海の中に沈んだとされています。創世記(13:10)には、「ヨルダン川流域の低地一帯」と明確に書かれていますので、死海の北側にあったことは確かだと言えます。神様に対して多くの罪を犯したとされるこの二つの町は、退廃的な都市の代名詞となっています。なぜなら、ソドムとゴモラは、神の怒りに触れて滅ぼされたと、創世記が語っているからです。ただ、例外がありました。ソドムに住んでいたロトとロトの二人の娘(モアブ人、アンモン人の祖 創世記19:37,38)だけは、神様から滅ぼされずに、救われたのです。

 ロトは、アブラハムの甥に当たります。アブラハムは神様から、カナンの地を与えられました。そこで、アブラハムの一族は神様が示すままに遠から訪れ、カナンの地であるヨルダン川流域に定着しました。しかし、一族の人数に比べて土地が狭かったので、ロトとアブラハムは東と西に別れて暮らすことにしました。ロトはその後、周辺の町を転々としたのちソドムに移住(創世記13:12)して、二人の娘もソドムの人と結婚していました。

 

 ソドムとゴモラは、ロトが移住する以前から悪事がはびこる町として有名です。その悪事とはどんなものだったのかを書かれた記録はありません。しかし、創世記の次の記事にある「ソドムの滅亡」(創世記19:1-29)を読んでみると、ソドムの町の男たちが、神様がロトに遣わした二人のみ使いを辱めようとした事が書かれています。この記事からも、よからぬ町であることがわかると思います。

 

 神様はそういった理由で、ソドムとゴモラを滅ぼそうとしますが、アブラハムは「ソドムを滅ぼさないように」神様にとりなしました。それでも、聞き入れられませんでした。結果として、ソドムとゴモラには天からの硫黄の火が降り注ぎ(創世記19:24)すっかり滅ぼされてしまいます。しかし、ロトとその娘二人については、神様が救い出しました。その3人が救われた理由は、ロトが正しかったからでも、ロトの娘たちが正しかったからでもありません。「ソドムの滅亡」の物語の最後には、このように書かれているからです。

『19:29 こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。』

 神様は、誰一人として正しい者がいないソドムとゴモラの街を滅ぼしてしまいました。しかし、アブラハムのとりなしを心にとめられて、ロトを救うために神様は二人のみ使いを遣わしたのです。

 

 アブラハムのとりなしは、「神様に対して食い下がった」という表現が適当ではないかと思われるほど、繰り返されました。アブラハムは、すでに神様がソドムとゴモラを滅ぼそうと決心していることを知っていながら、どうにかしてロトを助けてあげたかったのかもしれません。アブラハムとロトは叔父と甥の関係ですが、ソドムが外国から侵略を受けた時(創世記14:12)に、アブラハムは囚(とら)われの身となっていたロトを救出した(創世記14:16)こともあり、家族同様の堅い絆で結ばれていたのです。

 アブラハムは、神様にこのように聞きました。 

『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。18:24 あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。18:25 正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。』

 当時のソドムにどれだけの人数が住んでいたかは、わかりません。今日の記事は、紀元前2067年ごろにあたりますから、当時の最大の都市(テーベやルクソール)で6万人ほどです。そして、1万人くらいの町にソドムはランキングしていませんので、それ以下の人口のはずです。仮に五千人いたとします。50人ということは、100人に一人ぐらいは、正しい人がいるだろうとアブラハムは考えたのかもしれません。アブラハムは神様を説得します。

「悪を行う者が99人いたと言う理由で、一人の正しい人をも滅ぼすのですか? それは正義ではありません」

「正しい人たちのために、悪を行うソドムの町の人々全てを赦してくださらないのですか?」

アブラハムは、正しい者が何人かいれば、その人たちのために町は滅ぼされるわけがない。神様はそのようなことをされる方ではないと、確信をもって質問をしました。

しかし、神様の答えは、意外なものでした。

『もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。』

 この神様の答えは、アブラハムの説得を丸ごと受け入れたという意味でしょうか? いいえ、むしろ、「ソドムに正しい人は、五十人もいない」と言う意味に受け取らなければならないと思われます。

 アブラハムは、神様の意図を読み取って、五十人、四十五人、四十人、三十人、そして二十人まで修正します。とうとう、こんな事になってしまいました。

「ソドムに正しい人が十人いれば、滅ぼさないのですか?」

そして、神様の答えは、『その十人のためにわたしは滅ぼさない。』

 アブラハムは、この答を受けて、人数を減らして質問することをやめました。ソドムの町に正しい人は十人もいないと神様はお答えになったからです。聖書によれば、その時ソドムに住んでいたロトの身内は、ロトと妻、娘二人とその婿たちの6人そして、何人かわかりませんがその家族と使用人です。アブラハムがもし、正しい人が五人いたら?と聞いたとしたら、神様が「その5人のために私は滅ぼさない」と答えるでしょう。そうしたならば、ロトの少なくとも6人以上いる身内に悪を行うものがいることになります。・・・アブラハムは、その答えが怖くて次の質問をしなかったとも見ることもできます。しかし、アブラハムは確信しています。神様は、たった一人でも正しい人がいたら町を滅ぼすようなことはないのです。アブラハムは、神様はすでに十分に吟味し確認した上で「ソドムとゴモラを滅ぼす」と言われていることに気づいたのだと思います。ロトもその身内の者も罪を犯していたことを知り、アブラハムはそれ以上神様を問いただすことが出来なくなったのです。アブラハムは正しい人です。自分の身内であるにも関わらず、神様に罪を犯したのであれば、ロトが滅ぼされるのは仕方がないと思ったのでしょう。「ソドムの町はロトが正しい人であるから、ロトのために滅ぼされるべきではない。」そのように考えて、神様に食い下がったアブラハムでしたが、現実は厳しいものでした。アブラハムは、この現実を悟ると、もし~ならばとの仮定の話ではなく、すでに確定していること、そして交渉の余地が無いことを理解しました。ですから、アブラハムは神様と別れた後、ロトを助けには向かいませんでした。ロトを救出しようとしても、神様の御意思には逆らえないと考えたからです。アブラハムは、だまって神様の決定を受け入れたのです。そして、自分の家に帰りました。

 

 ところで、神様はどうお考えだったのでしょうか?神様は、アブラハムがなぜこのように食い下がるかを知っていました。アブラハムは、ロトの使用人と争いが起きた時も、ロトに豊かな方の土地を譲り、ロトが囚われの身になった時も命がけで助けに行っていました。アブラハムは、ロトのことを愛して、守ってきたのです。それが、今ソドムとゴモラの罪によって町ごと滅ぼされようとしています。アブラハムは神様に何度も食い下がりました。そして最後に神様の御意思を知ると、アブラハムは引き下がったのです。そのあとになって、神様は考え直されました。そもそも正しい者は少ないのです。神様を信じ、神様に礼拝し、神様のご命令を守る。それが、できている人はなかなかいません。その数少ない正しい人であるアブラハムのために、神様は、ロトを滅ぼさないと決められたのです。こうして、アブラハムのとりなしによって、ロトは滅ぼされませんでした。ところが、これでハッピーエンドになったわけではありません。この物語には、さらに続きがあります。ロトの妻は、神様の『後ろを振り返ってはいけない。』との指示を破って、塩の柱になりました。また、ロトと娘二人は罪を犯したのです。

 神様は、この出来事をどのように捉えていたのでしょうか?。一人の正しい人のために神様はロト夫妻と娘二人の命を助けました。しかし、ロトの妻は神様の指示を守らなかったために命を落としてしまいました。また、生き残ったロトと、ロトの娘二人は、「救われた神様に感謝して、自らの罪を反省していた・・・」なら良かったのですが、結末はどうだったのでしょうか?。残念ながら、ロトと二人の娘は罪を犯してしまうのです。神様は、ロトを滅ぼしませんでした。しかしその判断をした結末はと言うと、神様にとっては何も良いことは起こっていないのです。また、そういう結果となることを、神様は予見できたはずです。それなのに神様は、ロトを助けることを選びました。なぜでしょう?神様がロトを助けた理由とは、ただ一つだけであります。正しい人アブラハムの「とりなし」があったから、と言う事になります。アブラハムは、神様に「正しい人のために、町を滅ぼさない」ように懇願しました。そして、神様は、「正しい人のために滅ぼさない」と約束しています。この約束を読み替えると、「正しい人アブラハムが助けてほしいと願うロトを神様は助けると約束した」と理解したほうがよいでしょう。そして、このアブラハムの神様との会話は、とりなしの祈りとも言えます。神様に祈って、そしてお願いしたことは、すべてが聞かれるのです。アブラハムの祈りも、本当はロトを助ける事でした。神様は、その祈りを聞かれたのです。

 さて、このとりなしの祈りは、アブラハムや、正しい者だけに許されているのではありません。罪深い私たちが祈ってでさえも、神様は聞かれるのです。なぜなら、どんなに罪深くても祈りを神様に捧げているとき、その思いには、罪はありません。私たちが、神様を信じて祈りを捧げているとき、神様は私たちを「正しい人である」と認めてくださいます。ですから、神様は、罪人の祈りであっても、正しい人の祈りとして、聞いてくださるのです。また、そもそも「とりなし」の祈りは、祈る人自身のための祈りではなくて、家族や隣人のための祈りであります。ですから、「とりなし」の祈りには、個人的な利益や欲望が入り込むことはありません。ですから、神様も喜んで聞かれるのです。

 

 アブラハムは、ロトのために「とりなし」の祈りをしました。その結果、ロトは助かりましたが、アブラハムは「ロトが助かる」とは思っていなかったでしょう。もともとアブラハム自身は、神様に「ロトを助ける」ようにはお願いしていないからです。たぶん、アブラハム自身は、ロトが助かったことを知ってから、神様のご意思であったことを、そして「神様が、アブラハムのためにロトを助けた」ことを知ったと思われます。このアブラハムが何度も何度も神様に聞いて、そして祈ったことで、神様はアブラハムの願っていることをかなえてくださったのです。

 私たち罪人ですが、神様はアブラハムの「とりなし」の祈りと同じように、私たちの「とりなし」の祈りを聞いてくださいます。そして、祈った通りにではなく、私たちの本当に願うことを神様はかなえてくださいます。私たちの祈りを聞いて下さる神様に感謝しましょう。