マルコ3:31-35

 ここに私の家族がいる 

 参考 3:20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

 マルコ3:31~35だけを読むと、イエス様は何て言うことを言うんだろうと疑問に感じることだと思います。しかし、参考に3:20~21を記載しました。マリアとイエス様の弟・妹たちが家の外にやってきて、イエス様のことを取り押さえに来ていたのです。第一にイエス様は、跡取り息子です。父ヨセフが早く亡くなっていたようなので、家を支えていかなければなりません。それが30歳ごろまでは、大工の仕事をしていたのですが、バプテスマのヨハネの教団にはいり、ヨハネが捕まった後にはガリラヤに戻って(マタイ4:12)きましたが、仕事をせず各地を回って伝道をしました。ですから、家族から見れば、長男が責任を放棄して家を飛び出し、エルサレムの律法学者たちから危険人物とのレッテルを貼られているように見えたのです。また、気が変になっているとも噂されていたので、連れ戻さなければいけないと思ったのでしょう。


1.イエスの家族

 「預言者は故郷で受け入れられない」(マルコ6:1-6A)には、家族の名前が出てきます。ここでは、その平行記事を示します。 

マタイ『13:53 イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去り、13:54 故郷にお帰りになった。会堂で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。13:55 この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。13:56 姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」』

 この記事から見ると母マリア 兄弟ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ。そして姉妹が2人以上います。

また、ルカの平行記事には、このようなことが書かれています。

ルカ『4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。~4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。』

 かなり物騒な記事です。この状況から、故郷ナザレに帰ってきたときには、身に危険が及ぶ可能性もあるわけです。家族が連れ出そうとするのも無理はないことだということがわかります。そして、イエス様は、命まで狙われたのは、やはり律法違反の数々でしょう。安息日に人をいやすことは、当然のようにやっていました。また、汚れたものに触ってはいけないという教えを無視して、重い皮膚病の人をいやしました。それから罪人たちと食事を共にしたことなど、律法学者の教えを否定するような行為を続けていたので、いつも論戦が行なわれていたようです。

2. 私の兄弟・姉妹

 イエス様は、母や兄弟たちからは「狂っている」ので取り押さえる必要があると、理解されていました。それでも、イエス様は宣教を続ける意思を持っていました。それはイエス様の中に、「神の国が来た、世の中が根本から変わろうとしている」ということを伝える使命感があったからでしょう。そのようなイエス様に従い、言葉に耳を傾ける者たちがイエスを囲んで座っています。弟子たちや悪霊を追い出された人たち、病気を癒された人々、「罪人」と排斥されていた人々が、イエス様を取り囲んで話を聞いていました。

 イエス様の母と兄弟たちはイエス様のところに来ましたが、家の中に入ろうとせず、「外に立ち、人をやってイエスを呼ばせ」(3:31)ます。家に入らなかった理由を考えてみましょう。

①人が大勢でとても入りたくなかった

②捕まえるつもりだったので、イエス様を大勢の人から離そうとした

③「狂っている」教えを聞きたくなかった

どれであろうと、家の中に入らずにいる、家族の気持ち(距離感)が現れています。伝言を頼まれた者はイエス様に言います。

『「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」』(3:32)。

それに対してイエス様は『私の母、私の兄弟とはだれか』と答えられます。

これは過激ですね。イエス様は自分の家族に対して、「私はあなた方を知らない」と言われたことになります。ユダヤ人は、血縁を大事にしますから、受け入れがたい言葉です。しかし、イエス様の家族の見せた距離感は、すでに血縁を大事にしている態度ではありません。イエス様の噂による、風評被害のようなものを避けるためにであって、イエス様のためにやってきたのではなかったのです。

 その後、イエス様は彼の話を聞いていた人々の顔を見つめながら言われます。

『「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる」』(3:34)。そして言われます

『「神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」』(3:35)。

血の繋がりだけでは家族ではなく、むしろ信仰で繋がった人々が神の家族であると宣言されたのです。

血の繋がった家族はイエス様の生存中はイエス様の事を理解しようとせず、逆に、神の家族はイエス様の言葉を理解しようとしたからです。