マルコ11:12-26

  神殿といちじくの木

 この箇所には、マタイ21:18-22に平行記事があります。一方ルカでは、13:1-9に実のならないいちじくのお話がありますが、「祈りは聞かれる」というテーマではなく「悔い改め」がテーマです。

いちじくは年2回(春6月ころ、夏9月ころ)の収穫期があります。過ぎ越しの祭りの時には、まだいちじくは実りませんが、つぼみが出ているはずです。いちじくを「無花果」と書くように、花が咲かないのに実がなるように見えます。実際にいちじくの花は、つぼみの時から実のように見え、花は外に向かってではなく実に見えるところの内側に咲くものです。季節が過ぎ越しの祭りの前と言うと4月初旬ですからイエス様は、そのつぼみを探したのだということです。当時は、つぼみや花の時につまんで、空腹を紛らわしたようです。

1.いちじくの木を呪う

 いちじくの木は、イスラエルを象徴しています。特にこの箇所の場合は、エルサレム神殿やそこで働く祭司職等のことを指していると思われます。そのいちじくの木の葉は立派に茂っていますが、つぼみが全くついていません。実がなる季節ではありませんが、これから実になるはずのつぼみさえつけていないのです。イエス様は、そのいちじくの木を呪いました。

『今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように』との呪いの言葉は、将来のイスラエルの滅亡(神殿崩壊AD70年、ローマによる征服AD135年)を宣告したものだと思われます。

2.神殿から商人達を追い出す

 

 エルサレムの神殿には、礼拝をするために、また犠牲を捧げるために大勢の人たちが集まります。献金については、神殿内で独自のお金が使われていましたし、犠牲の動物も必要ですから、神殿の異邦人の庭には多くの商人がいました。両替商であり、犠牲として捧げる鳩などを売る商人です。祈りの場である神殿が、すっかり市場のようになってしまっていたのです。さっそくイエス様は神殿の異邦人の庭から商人たちを追い出しました。また、神殿の外側の庭である異邦人の庭は、広大であり街の真ん中にあるので、近道をするために荷物や人が行きかっていました。そこで、イエス様はこの神聖な神殿の中での通り抜けを禁止しました。そしてこのように教えるのです。

『こう書いてあるではないか。『わたしの家は、すべての国の人の/祈りの家と呼ばれるべきである。』/ところが、あなたたちは/それを強盗の巣にしてしまった。』

下線部分は、異邦人の受け入れについてイザヤ書に書かれているものです。

イザヤ『56:7 わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き/わたしの祈りの家の喜びの祝いに/連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるなら/わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

このように神殿が市場化していて、もはや神聖な祈りの場でなくなっていたので、この神殿は実(つぼみ)を付けていないとイエス様は指摘されたのでした。そして、このエルサレム神殿およびその運営に当たっている人々は、実のならないいちじくの木のような裁きを受けるのです。

3.いちじくの木が枯れる

 翌日、イエス様が呪ったいちじくは根元から枯れています。そのことをイエス様は言われました。

『11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」』

この言葉に前半は、弟子たちに、そして後半は祭司長や律法学者たちに向けられていると思われます。前半は、説明するよりも文字通りに受け取れば十分でしょう。後半について、祭司長や律法学者たちは、イエス様から「強盗」呼ばわりされました。そして、イエス様を殺そうと企みます。イエス様は、そういう時こそ祈って、神様の前でその恨みに思うことを赦せば、神様も祭司長や律法学者の過ちも許して下さるだろうと言われたのだと考えます。残念ながら、イエス様の宣告通りエルサレム神殿はAD70年に崩落してしまいます。この出来事は、祭司長や律法学者たちが、「神様に祈り、そして恨みに思うことを赦す」ということをしなかったことを物語ります。イスラエルの罪は、祭司長や律法学者たちの過ち、すなわち、「神殿を強盗の巣としてしまい、祈りの家でなくなった結果、実のならないいちじくのようにイスラエルをわるくしてしまった」という「過ち」があったままでした。そして、「祈りと、赦し」が無かったために、神様から赦されなかったのです。