サムエル記上
16:1-13a

様の選び

2024年 1月14日 宣教

 聖書 サムエル記上16:3a

「神様の選び」

今日は、サムエル記を通して、神様が選んだ一人の信仰者、ダビデの記事からお話します。ダビデを生涯導いた神様は、ダビデの信仰を通して、救い主イエス・キリストを啓示しました。今日の聖書は、ダビデが神様に選ばれる場面であります。  

 およそ紀元前1000年のことです。神様は、イスラエルの王にサウルを選びます。神様は、預言者サムエルを通してサウル王を導こうとしました。しかし、サウル王は、神様に従っているようで、実はそうではなかったのです。それで神様は、サウル王に代わる王を立てようとしました。最期の決め手となったのは、アマレク人との戦いの時のことです。アマレク人と言うのは、古代パレスチナの遊牧民であります。言うまでもなく異教徒なので、神様は血が混ざることを嫌いました。しかし、この戦争の結果、イスラエルはアマレクを吸収してしまいます。その時の神様の命令はこうでした。

サムエル上『15:3 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」』

この命令に、サウル王は逆らいました。

サムエル上『15:9 しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。』

アガグとは、アマレク人の王様の名前です。アマレクの王様を大事にしたのは、アマレク人を治めようとの欲望からです。サウル王が、神様の命令よりも、自分の欲しい物をむさぼることを選んだ結果でありました。このために、神様はとうとう決断しました。命令に従わず、心が高ぶったサウルを退けることを。・・・そして、サムエルに『角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。』と指示をします。

 動物の角は、「力」のシンボルです。当時、杯や角笛として使われました。また当時の祭壇の四隅には、突起がつけられていて、「祭壇の角」と呼ばれ、最も神聖な場所とされていました。ですから、身の危険を憶えた人が祭壇の角をつかんで、神様にすがった(王上1:50)くらい 角は力の象徴でありました。また、油はオリーブ油のことです。神の人である預言者が、角の中のオリーブ油を頭に注いで、王様を任命するわけです。救い主、メシアとは、この「油を注がれた者」という意味でもあります。サムエルは、この神様の指示に しり込みをしました。なぜなら、サウル王とサムエルの間には緊張があったからです。神の人であるサムエルですから、神様に逆らうサウル王と対立しています。それに加えて、次の王様を決めに来たことが知れると、サウル王に近い人々はサムエルを捕まえることでしょう。とても、うまくやり遂げられるとは思えません。そこで、神様はサムエルに目的の「油注ぎ」を隠すように指示します。

 さて、神様は、どんな人に目を留め、イスラエルの救い、そして神様の働きに用いるのでしょうか? 一度サウルを選んで失敗しています。実際にサウルの印象は良かったようです。このように、聖書に書かれています。

サムエル上『9:2 彼には名をサウルという息子があった。美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった。』

 この記述は人から見た目によるものです。聖書には、どうして神様がサウルを選んだのかは、書かれていません。しかし、事実としてサウルは神様に対して従順であったわけではありません。ですから、神様も選び方を考え直したことでしょう。

 さて、サムエルは、ベツレヘムのエッサイの所に行き、エッサイとその息子たちを招きました。神様の選んだ者を見つけるために来たことを隠し、「いけにえを献げに来たと言うように」との神様の指示でした。そのいけにえを捧げる場所にエッサイの息子たちが来た時、サムエルは、長子エリアブを見て、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」と思いました。たぶん、エリアブはサウル王のように美しく、背が高かったのでしょう。サムエルは、後からやってきたダビデについても「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。」と見た目を書いています。これは、人の見る目の限界であります。しかし、神様は、サムエルに「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と伝えました。人はどうしても、外見的な容姿や能力を見てしまいます。そういったものも、指導者として必要なことも事実でしょう。しかし、それは本質ではありません。神様が、救いの業であるご自身の働きに求められているのは、容姿や能力ではないからです。「神様は心によって見る」のです。この「心によって見る」との一言の中に、多くの事が含まれています。内なる人間としての、知識、思考、記憶 の能力は当然ながら、意志の決定のためには良心や道徳性も問われます。もちろん、高慢であるとか謙虚であるとかも重要な要素でありますし、愛情や情熱そして物や食事に対する欲も「心」の中に含まれています。神様の求めているのは、やはり救い主イエス・キリストのような心のことではないでしょうか? イエス・キリストのような神様に従う心を持つ者を、イスラエルの新しい王様に立てようとしたのです。そして、その新しい王様が任命されることによって、選ばれた王様の生きざまは、救い主イエス・キリストの姿を思い起こさせます。

 イエス様は、私たちを愛し、私たちの罪の身代わりとして十字架に架かり、私たちの罪を赦しました。そして私たちに、神様とともに歩む新しい命を与えて下さいます。神様は、いまやイスラエルだけの神様ではありません。神様は、全ての人々をこの救いに招いています。でもしかし、その救いに与るには、自分の罪を認めることが条件であります。即ち「自分は罪人であり、自分では自分を罪から救い得ない」ことを認め、神様の恵みに拠り頼む人です。イエス様は、罪人ではありませんが、神様の御心に従って罪人として十字架に架けられました。またダビデは、自身の罪を告白して神様にすがりました。神様に拠り頼んでいたからです。神様は、自らの力や知識を誇り高ぶる者ではなく、神様の前に魂が打ち砕かれる者を、神様の働きのために用いるのです。少年ダビデ。父エッサイにも息子として認められていなかったダビデ。神様はそのダビデを召し、用いようとされたのです。ダビデは、このように謙虚に歌っています。

詩篇『34:19 主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。』

神様は、「打ち砕かれた者」を救い、悔いる霊とともに、用いて下さるのです。


 この物語で特徴的なのは、神様がすべて主導して、ダビデを王にしたことです。神様はサウル王を立てたことを失敗として受け止め、そしてサウルが王様であり続ける中、新しく王様を選ぶ決心をしました。また、ダビデを見出したのも、ダビデに油を注ぐように命じたのも、すべて神様ご自身でした。そして、この後のダビデの生涯にわたって、ダビデには聖霊の導きがありました。

 ところで、私たちの日々の歩みですが、自分が動かしていると思っていることがあると思います。また、ただの偶然のように思う出来事もあります。しかし、そうではありません。ダビデが知らないうちに、神様がイスラエルの王とすることを決めたように、本人がかかわる前から、神様はその人の歩むべき道に導いておられるのです。


 エッサイは、息子たちが招かれているのに、末の子ダビデには羊を飼わせていて呼ぼうとしませんでした。サムエルの依頼に従って、犠牲を捧げるためには、身を清めなければなりません。また、その後に犠牲を捧げる準備や食事を整えるので結構な時間が必要です。ですから、呼ぼうと思えばダビデを呼べたはずです。それなのに、エッサイも他の息子たちも、ダビデを呼びませんでした。その必要が無いと思っていたのでしょう。そして、サムエルが良いと思って選んだのも長男でした。ところが神様は、長男を選びません。サムエルは、神様と同じ視点つまり「心によって見」ていなかったとも言えます。さらに言えば、エッサイはダビデをしいたげていたようにも読み取れます。皮肉なことに、ダビデとは「愛された人」と言う意味なのにです。最愛を意味する名前を持つダビデは「神様の愛する御子」のイメージに似ていました。それなのにダビデは、エッサイのすべての息子たちの中で、最も愛されていなかったのです。

『16:13 サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ』

こうして、油を注がれて以来、神様の霊がダビデに臨みました。ダビデが油を注がれた事は、単なる任命の儀式ではありません。この油注ぎは、神様の力がダビデに注がれた。 そのしるしであります。ダビデは油注ぎをきっかけとして聖霊と共にあったので、知恵と勇気が強められました。こうして、ダビデに王様としての資質が与えられたのです。しかし、ダビデから見れば内面的には何も変わったわけではありません。相変わらず、神様の前に「打ち砕かれた者」でしかなかったのです。ダビデは神様から選ばれて、力が与えられました。そしてダビデは、その力が神様のものであることを自覚していたわけです。そのように自覚しているならば、ダビデの下す判断は、神様の意志に従ったものでなければなりません。しかし、時としてダビデは神様の意志に沿わない事もしてしまいます。それでも、ダビデは神の人サムエルからそれを指摘されると、「打ち砕かれた者」に立ち返って全身全霊で受け止め、神様に祈ったのです。

 私たちは、天の国に住むことをあらかじめ定められています。その何よりの証拠は、聖霊が私たちの心に働きかけていることです。イエス様を信じたその時から、私たち一人ひとりの心の内に聖霊が住んでいます。その聖霊は、私たちを変えたのです。そして、これからも私たちは、聖霊によって変えられていくのです。


 私たちは、神様に見出され、救いに与りました。このことを感謝し、私たちの過去も未来もすべてが神様の御手の内にあり、聖霊の導きを受けていることを覚えましょう。そしてダビデがそうであったように、聖霊に導かれて、神様の働きのために用いられるよう、神様に祈ってまいりましょう。