創世記1:26-2:4a

天地創造の完成と安息


1.神(エロヒム)

 神が「我々に似せて」と言っております。つまり、このまま読むと神は複数なのです。人は神に似せて造られたのですが、その複数形の神とは一体何者なのでしょうか?そもそも、エロヒムはエロア(神)の複数形をとっています。(日本語の神、英語でいうGodは、もともとヘブライ語原典ではElohim(エロヒム)と書かれています。)

 ただし、イスラエルの神を指すときは複数形であっても唯一の神のことです。エロヒムは一切の支配者、創造主である唯一の全能の神を意味します。また、エロヒムが日本語の神であって、ヤハウェが神の名前です。ヤハウェ以外の神々のこともエロヒムと呼ぶらしいので、文脈で判断するしかないようです。

 素直に考えれば、多神教から一神教に変わった痕跡だと言えそうですし、天使も含めて我々と言ったのだろうとかも憶測として言われています。

2.神はご自分にかたどって

 神は、我々にではなく、自分にかたどって、人(アダム)を創造しました。この人は、単数形男性です。そして、6日目には男と女を創造したのです。(この後にある、女を男から作った記事と矛盾しています)

さて、創造主なる神は、男なのか?女なのか? この記事から読み取ると、神をかたどってできた人が男性であるので、神の一人?は男になります。一方で、女は誰をかたどったのでしょうか? 女性の神がいるのでしょうか?そしたら、男女の神々が最初からいたことになります。また、古代の宗教では、両性を具有する神々も存在したので、そのような神を前提に書かれたのかもしれません。そして、言えるのは、明らかに複数の言い伝えから編集されたために、その前提としていることが、場面場面で変わることです。言い伝えを編集したときに、どの言い伝えも捨てることが出来なければ、一貫性が欠けているのは、仕方がないことだと思われます。

3.地に満ちて地を従わせよ

 神は、産めよ、増えよと男と女に命令しました。それだけではありません。「地に満ちて地を従わせよ」と命令を加えます。天地創造の結果、地にあるものはすべて男と女のものだとの宣言でもあります。この時同時に、「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」との管理責任を男と女は受け取りました。神が創造した、地にある生態系を維持し、男と女が繁栄していくためには、欲しいものを獲るだけではなく、程よい管理が必要です。人が増えすぎると、他の生物が食べる物を直接人が奪ったりします。また、草や木を刈り取ってしまうことで、全ての生物のエネルギー源と蛋白源が減ります。だから、草と木が減ると、比例して生物も減るのです。

 神は、私たち人間に、この地を無条件に渡したようには見えますが、好き放題にして良いとしたのではありません。私たちは、自覚をもって繁栄しなければなりません。地球温暖化と騒がれて、久しいですが、実際私たちは、どれだけバランスの悪いことをしているのかを顧みる必要があります。草や木は、大気中の窒素を取り込みます。これは、たんぱく質になるわけです。それは、生物にとって餌となります。また、草や木は、肥料にもなります。ところが、木や草だけでは人間の食べる穀物や野菜、木の実を作るための肥料が足りないのです。だから、人工的に肥料を作ります。メタンガスと空気中の窒素を使って、アンモニアを造るのです。このアンモニアを原料にした人工肥料が無かったら、世界中の人が飢えてしまいます。どのくらいかというと、全ての植物が取り込む窒素と同じだけ、人工的に肥料として取り込んでいるのです。だから、人工的な肥料が無ければ、農業の生産高は約半分になります。おおざっぱでありますが、地球の半分の人が食べられなくなるわけです。すでに、私たちは地球の限界を超えていますが、このことは「地に満ちて地を従わせよ」との命令に反しています。現在の私たちは地を従わせているのではなく、地を搾取しているからです。また、神の作った、極めて良いこの地を、そしてすべての生きるものを危うくしているのです。



4.安息日

 ユダヤの安息日は、金曜日の日没から始まり、土曜日の日没で終わります。この日が第七の日ですから、天地創造は、土曜日の日没から金曜日の日没までかかったことになります。


『2:2 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。』

この訳では、第七の日に完成したなら、第七の日もちょっとだけ働いたのか?と感じてしまいます。

原文から直訳してみると

「第七の日に、神はやっていた仕事をやめ、第七の日に、神は彼の仕事を休んだ。」


つまり、「第七の日は、すべての創造の業から離れていた」(2:3)との記述と矛盾しないわけです。ユダヤの安息日は、厳格であります。「ちょっとくらい流れで働いてもいいだろう」とはいかないのです。もし、神が、第七の日に天地創造を完成させていたなら、厳格に安息日を守ろうとする理由がありません。

 この創世記の記事を記念して、安息日が守られるようになります。

そして、「第七の日を神は祝福し、聖別された。」ことから、安息日が礼拝を守る日となります。ただ、創世記には、その安息日が出来た経緯は書かれていません。聖書で、最初に安息日が出てくるのは、出エジプト記です。マナを食べていたころの安息日の指示です。


出『16:23 モーセは彼らに言った。「これは、主が仰せられたことである。明日は休息の日、主の聖なる安息日である。焼くものは焼き、煮るものは煮て、余った分は明日の朝まで蓄えておきなさい。」』

このまま読み取れば、「エジプト脱出中に安息日が出来たのだろうと」言うことになります。

そして、安息日は十戒として、石板に刻まれたときに、明示されたのです。

『20:8 安息日を心に留め、これを聖別せよ。20:9 六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、20:10 七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。

20:11 六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。』