コリントの信徒への手紙一3:1-23

教師の使命


1.食べる物の選択

 パウロは自分の「子供たち」を優しく世話し、乳を飲ませる「母親」のように振舞います。生まれたばかりの赤ん坊に与える食べ物は、選ばなければなりません。パウロも、コリントの信徒たちによく気を配り、基本的なことがらを教えます。神様の知恵をまるごと彼らに与えるのは、無理だったからです。実際、彼らは自分の教師たちをかついで言い争っていました。彼ら、コリントの信徒たちは、信仰についてあまり理解していなかったようです。彼らには、「ミルク」を飲ませることから、すなわち基本からはじめなければならないのでした。ところが、彼らは自分自身がすでに「霊的」であるかのように思い込んでいたのです。

2.教師とは?

 コリントの教会では、どの教師の肩を持つか、言い争っていました。とりわけアポロの力強い説教は多くの信徒を魅了したようです。しかしパウロは、コリントの信徒たちが、それぞれのリーダを担ぎあげて、グループを作ることを心配していました。教師は、神様のみ業に携わっている農夫であります。福音を蒔いて育てる「畑」は、「神様のもの」であり、コリントの信徒たちは「神様の建物」であることをパウロは強調します。畑も農夫も「神様のもの」なのですから、気に入った農夫に応じてグループを作るのはまったく意味がないのです。

 パウロはコリントの教会を設立しました。つまり、芽を植えたわけです。アポロは教会の世話をしました。つまり芽に水を上げたのです。しかし、すべての背後には神様がいて、成長させてくださったのでした。アポロもパウロも自分の仕事に応じて神様から「報酬」を得ます。つまり、「皆がそれぞれ自分の仕事に責任をもてばよい」ということです。御言葉を語る者たちは皆、神様の同じみ業に携わっています。

3.教師の使命

 パウロはここでも比喩を用いています。教会は「神様の建物」です。コリントに到着した後、パウロは「建築家」になって、建物にしっかりとした土台を置きました。神様のもうひとりの働き人、つまり誰か他の教師がパウロの置いた礎石の上に建築工事を続けたのでした。しかし建物自体は、「パウロのもの」でも「もう一人の建築家のもの」でもなく、「神様のもの」です。

パウロは、「自分が置いた礎石とはちがう礎石の上に誰も教会を建てたりしないように」、と警告しています。そのパウロの置いた礎石とは、「キリストとその十字架の死」でした。この礎石の上に、働き人は皆それぞれ技量のかぎりを尽くして教会を築いていきます。そして、最後の裁きの時に火によって試されます。コリントの教会が、裁きの時に燃えて灰となる事態になりかねないのです。ただし、神様の働き人がキリストという岩の上に教会を建てた場合、彼自身は救われます。とはいえ彼は、火の中をくぐりぬけるようにして、神様の御国に入っていくことになります。

 この箇所は信徒一般についてではなく、教師についてのみ語っています。しかし、ここで確認しておくのは、教師だけではなく、すべてのクリスチャンにとっても有益であります。最後の日に(神様の)裁きは「神様の建物」、すなわち教会から始まります。パウロの言葉に、コリントの教会の教師たちへの、警告を見て取るべきでしょう。

 パウロはさらにもうひとつの警告をしています。彼がコリントに建てたのは、建物ではなく、神様がお住まいになっている「神殿」でした。もしも今、誰かがコリントの教会を訪れて、「キリストとその十字架」から離れるように教えるならば、そこに神様はお住みになるでしょうか?。

4.まとめ

 コリントの教会の信徒間の派閥争いがまったく愚かなことであることを、パウロは強調しています。こうした争いの背景にあるのは、自分を他の人よりも上に置いて人を支配したいとの人間の欲望です。パウロは主張します。福音は人間的な知恵に基づく教えではありません。自分を賢いと思う者は愚かであります。ですから、自分が愚かであることに気づいて認めるべきなのです。そして、キリストに基づいて得られる知恵を自分のものとしなさい。人間の欲望のために、神様の教会に争いごとを持ち込むべきではありません。

 パウロ、アポロ、ケファ(ペテロ)は皆、神様が御自分の「畑」の世話をするために与えてくださった農夫なのです。彼らすべては、コリントの信徒たちの最善を考え祈っています。それはちょうど、神様がコリントの信徒たちに豊かな賜物を分け与えてくださっているのと同じです。こうして、出来上がっている神様の教会です。誰も「自分のものだ」などと思ってはいけません。教会は「キリストのもの」であり、コリントの信徒たちはキリストの御名によってバプテスマを受けたのです。さらに教会はキリストを通して「神様のもの」なのです。ですから、教会員は主にのみに栄光を称えなければなりません。