ヨハネ5:36-47

 神の子の証

2022年 12月 4日 主日礼拝

神の子の証

聖書 ヨハネによる福音書5:36-47

 今日はもうアドベント第二週です。アドベントキャンドルも、先週から点灯している預言者の蝋燭に天使の蝋燭が加わりました。第三週は羊飼いの蝋燭、第四週がベツレヘムの蝋燭と1本づつ増えていきまして、今年は25日が日曜日ですから、ユダヤの25日(24日の夕方から)にイエスキリストの蝋燭に火がともります。今年は、土曜日にイヴ礼拝で、日曜日にクリスマス礼拝を守りますから、二日連続の礼拝を感謝して守りましょう。

 今日は、イエス様がご自身のことについて証をしている聖書の箇所から、み言葉を取り次ぎます。「キリストは、イエスである」こと、つまり「神様から遣わされた救い主がイエス様であり、父である神様から裁きを委ねられている」ことをイエス様ご自身が語ります。ところが、直接的に証明するのではなくて、「このことを証言できるものが存在する」とイエス様は言われました。イエス様は、「自分がキリストである」との証明については、複数の証人がいて、複数の証拠があると言うのです。まず証人ですが、バプテスマのヨハネと父なる神様、そしてモーセです。そして、二つの証拠とは、イエス様が行なわれたみ業と聖書です。例えば、現代の裁判を考えてください。証言や、証拠を提出することで事実の証明をします。そして、証言する人の人格や、証拠の信ぴょう性が事実かどうかの判断に大きな影響を与えることになります。なぜならば、うその証言をすることもできれば、存在しなかった証拠を捏造することが出来るからです。そういう意味で、一般的に本人が証言するよりも、第三者の証言が客観性をもちます。さらに、民衆の尊敬を集めているバプテスマ*のヨハネ(*希バプテスマ:水に浸すこと、洗礼)と全能なる神様を証人とするのであれば、疑う余地は無くなってしまいます。しかし、問題があります。法廷などに呼び出して証言してもらうわけにはいかないことです。ですから、バプテスマのヨハネの言葉(福音書)と聖書(旧約)によって、その証言を読み解かなければなりません。

最初の証人はバプテスマのヨハネです。バプテスマのヨハネは、イエス様と同じ時代に生きた預言者で、ユダヤ人たちに支持されていました。このヨハネによる福音書にも、何度も登場します。バプテスマのヨハネは真理を語る優れた人でした。バプテスマのヨハネの働きによって、ユダヤ全土の多くの人々が、罪を悔い改めてバプテスマを受けました。イエス様自身もヨルダン川でこのヨハネからバプテスマを受けています。イエス様は、このバプテスマのヨハネが証言していると言います。これほどの証人はいません。ヨハネによる福音書では、その証言を確認できます。

『1:29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。1:30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。1:31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」1:32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。1:33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。1:34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」』


このバプテスマのヨハネの言葉の中には、たくさんの証言がはいっています。

まず最初に、イエス様を見て「神の小羊だ」と言ったこと。つまり「イエス様は神の子であり、私たちの罪を贖うために来られた」との証です。次に、「ヨハネの後から来ると言っていたのは、イエス様の事である」との証です。バプテスマのヨハネの役割は、救い主が来るときのために道をまっすぐにすることです。(イザヤ『40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。』)当然、救い主は人であるバプテスマのヨハネより優っています。さらに「わたしの後から来る人であり、わたしより先におられた」わけですから、神の子であるイエス様は神様でもあることを証していることになります。「イエス様は、天地創造の前から、おられた方だ」とバプテスマのヨハネが言っているからです。

 そして、神様からの啓示をバプテスマのヨハネは受けていました。

『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である』

 バプテスマのヨハネは、イエス様に霊が降るのを目撃しました。つまり、神様に啓示された「聖霊によってバプテスマを授ける人」とは、イエス様の事だったのです。ですから、バプテスマのヨハネは、イエス様のことを神の子と

証しました。


バプテスマのヨハネほど真実を語るに相応しい証人はいないのですが、人であることには違いはありません。イエス様は、このように付け加えます。

『5:36 しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。』


 「わたしが行なっている業が証ししている」とイエス様は説明します。例えば、イエス様が行った癒しの業は、イエス様が神の子であることの「しるし」であります。人間には出来ないことを、イエス様は多くの人の前で行ったのです。それは神様から遣わされた方だから出来ることです。ですからイエス様が行なったみ業(奇跡、しるし)は、「証拠」であります。


もう一つの証拠は、聖書です。イエス様は、このように言われました。

『5:38 また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。5:40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。』

聖書(ここでは旧約聖書)には、父なる神様の言葉があります。そしてイエス様について預言されているのです。預言者たちによる言葉ですが、これらの言葉は神様から預かったものであります。ただし、この証拠は旧約聖書を読んで研究していても、イエス様を求めないのであれば、その証拠に気が付きません。そして気が付かない事には信じることはできないのです。

そこで、モーセが証人として立てられます。

『5:46 あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。5:47 しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。』

あなたたちとは、イエス様を迫害しようとしている人たちです。つまり、ファリサイ派の人や律法学者や祭司たちだと思ってください。イエス様は、ご自身を迫害しようという人たちに向かって、「モーセを信じたならわたしをも信じるはず」と言います。その意味は、「あなた方は、モーセも信じていない」だから、わたしのことも信じてない」と言うことです。律法だけ大事にして、その律法の根本にあるモーセが神様から預かったみ言葉への信仰が無いとの批判です。だから「モーセの書いたことを信じない」のだとイエス様は断言します。

モーセの書いたこととは、一般的にモーセ五書(律法:ファリサイ派の人はこれを大事に守っています)ですが、今日の箇所では、神様がモーセに語ったこの言葉だと思われます。モーセは、イエス様のことをこう語っています。

申命記『18:18 わたしは彼らのために、同胞の中からあなたのような預言者を立ててその口にわたしの言葉を授ける。彼はわたしが命じることをすべて彼らに告げるであろう。』 

ユダヤ人が最も信頼しているモーセですが、ファリサイ派の人たちは、律法の管理人としてモーセの言葉の都合の良いところだけを切り取って、人々を指導していたのです。しかも彼らは、モーセのこの預言について、信じていなかったとイエス様は指摘したのです。本来、信仰があっての律法ですが、彼らは、モーセの預言つまり神様から預かったみ言葉を信じていなかったのです。


イエス様は、モーセの話をする前に、律法学者や祭司たちをこう言って非難しました。

『5:41 わたしは、人からの誉れは受けない。5:42 しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。5:43 わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。』


 イエス様は、人からの名誉は受けないと言っています。イエス様が、「人からの名誉」を排除する理由は、「神様を愛している」からです。これは、律法の中でも第一の掟であります。また、イエス様は神様の栄光の中にいますので、それで十分なのです。ファリサイ派の人たちは、その神様から与えられているイエス様の名誉に嫉妬していました。そして、「律法学者たちは、神様からいただいた律法を利用するだけで、神様を愛してはいない」ことをイエス様は知っています。なぜなら、イエス様は神様の御用のためにこの地上に来ているのに、イエス様を妬むファリサイ派の人たちは、イエス様を受け入れないばかりか、迫害しようとしているからです。神様を愛する者であれば、神様から遣わされた者を迫害するわけがありません。少くとも、神様を愛しているならば、神様の栄光の中にいるイエス様を妬むことなく、受け入れると思われます。

律法学者たちの不信仰の理由は、「神様からの栄誉ではなく人からの栄誉を求めている」からだと、イエス様は強く非難しました。また、神様の愛を求めるのではなく、人の愛を求めている、と指摘します。これは、人間のもつ根源的な性格です。ですから、人はあるがままでは、神様より人を求めようとするのです。私たちは人に褒められる事を喜びます。子どものころは親に褒められたい。学校へ行くようになると、先生に褒められたいと思い、社会に出ても人々に褒められたいと思います。ここで、イエス様は私たちに教えているのは、「人からの名誉を求めるよりも、神様からの名誉を求めなさい」という事です。

ですから、神様のひとり子として来られたイエス様のことばに聞き、イエス様に見倣えるようにイエス様に祈ってください。イエス様につながり、イエス様を求めれば、神様からの名誉を求めることと同じです。イエス様は、父なる神様の御心を知っていますから、神様の御心に従って歩まれます。そして事実、わたしたちの罪を赦すために十字架に架けられました。すべては、神様の愛の故です。イエス様の十字架の犠牲によって私たちの罪は赦されました。そして律法学者たちが、かたくなにイエス様を受け入れなかったことによって、その救いの業は実現したのです。これも世界中の人々を愛し、救おうとしている神様の御業であります。愛は、神様のものであります。わたしたち自身には神様の愛はありません。わたしたちは、イエス様のみ言葉によって、愛のない人間だと気づき、罪人であることを知りました。そして、神様の愛を受け入れ、今救いの業に与っています。アドベントを迎えています。どうか全てを計画された神様の愛に感謝して、イエス様が誕生したことによる希望を分かち合う時をもちましょう。