ローマ15:1-13

異邦人のために


1.自分でなく隣人を

 ここでは、初代教会におけるユダヤ人と異邦人の問題を、言及しています。

パウロは言います。

『15:1私たち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。』 


 信仰の強い者(旧い慣習や伝統から自由にされた者)は、まだ過去に縛られている「信仰の弱い人」に配慮して、「自分の満足」を抑えるべきだと、パウロは言います。そして、続けて言います。

『15:2おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。』


 キリスト者は、自分を喜ばせるために生きるのではなく、隣人を喜ばせるために生きるべきです。

何故ならば『15:3キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。』


 そのキリストの生き方を真似すべきだからです。イエス様の生涯は他者のためにありました。イエス様は病を癒しましたし、多くの場合、罪人、穢れた者とされていた人々と共におられました。このことで、イエス様はそしりを受けましたが、イエスは自らがそしりを受けることによって、病む者たちやそしりを受けている人たちの痛みを共有したのです。

 パウロがここで言っているのは、「この痛みを持った者のために、あえてそしりを受けられたイエス様を私たちは信じています。ならば、自分は正しいとして他者をそしり、痛みを与えるべきではない」と言うことです。パウロはこのように書き送ります。

『15:5-6忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ、声をそろえて、私たちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように』


2.ユダヤ人と異邦人のために


 『15:7だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。』

 

 教会にはいろいろな人が集まります。育ってきた環境も、職業や地位も異なりますので、たまたま教会で隣り合った人と意見や考えの違いがあるのは当然です。このことを克服する道をパウロは「キリストへの服従」の中に見出しました。(このローマ15章7節を、D.ボンヘッファーが「最もすばらしい結婚式の聖句」と賞賛したことが知られています。)

 イエス様が、「私たちのために」受け入れてくださったように、私たちは、「相手のために」受け入れるべきなのです。「私のために」はイエス様が配慮してくださっています。私たちは、その「私のために」イエス様が配慮してくださったことの応答として、「相手のために」配慮すべきなのです。

 具体的に配慮しなければならない相手は、ユダヤ人にとっては、異邦人です。そして、異邦人にとってはユダヤ人となります。イエス様は、ユダヤ人に仕える者となりました。旧約で約束されてきたことを確実にするためにイエス様は降って来られたからです。また、イエス様は異邦人が異邦人を憐れむ神様をたたえるようになるために降ってこられたのです。

詩篇『18:50 主よ、国々の中で/わたしはあなたに感謝をささげ/御名をほめ歌う。』


 ダビデが異邦人に囲まれたとき、この歌を詠みました。異邦人の中にあって賛美する場面をパウロが使ったわけです。(すこし、強引だとは思いますが、旧約の故事と結び付けたかったのだと思われます)


申命記『32:43 国々よ、主の民に喜びの声をあげよ。主はその僕らの血に報復し/苦しめる者に報復して、その民の土地を贖われる。』

詩篇『117:1 すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。』


パウロは、この2か所を引用しましたが、パウロの頭の中では、主の民とは「ユダヤ人」と「異邦人」のことでありました。そして、すべての国が、主(ヤーウェの神)を賛美するようになると、旧約に書かれていることを強調します。また、エッサイの根(イザヤ11:1)の最後には、この預言があります。

イザヤ『11:10 その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。』


 これは、イエス様を、異邦人の国々が求め、そして異邦人もユダヤ人もイエス様の栄光に輝くことを預言しています。そこまで書き記した後、パウロは祝福の祈りを捧げます。

『 希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。』