エフェソ3:14-21

 祈りで満たされる

2020年 9月 27日 主日礼拝

『祈りで満たされる』

聖書 エフェソの信徒の手紙3:14-21       


 今日は、パウロがローマの獄中にいるときに書いたとされる、エフェソの信徒の手紙から、み言葉を取り次ぎます。

 

 この手紙の宛先はエフェソの信徒となっていますが、現存する最古の写本には「エフェソの」という言葉は見られず、単に「聖なる人々、イエス・キリストを信じる人々」と書かれているのだそうです。また、エフェソの教会のことが書かれていないことから、パウロの手紙の集大成として特定の教会当てではなく、広く一般向けに書かれたとされています。

手紙の最初の挨拶文を見てみると、『1:1神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。』とあります。この「エフェソにいる」の部分を、あて先ごとに書き換えて、多くの教会に送られたものと考えられています。

 

 パウロは、エフェソの信徒への手紙を書いている途中で、父なる神様の前にひざまずいて祈りました。なぜなら、ローマの獄中にいるパウロは大変な苦難を受けようとしていたからです。その苦難とはパウロの殉教のことです。パウロの殉教が、私たちキリスト教徒にとって栄光につながることをパウロは知っていて、その覚悟はできていました。そして、神様の前でひざまずいて、兄弟姉妹たちのために祈るのです。

ひざまずいて祈るということは、この当時の習慣でありません。普通ユダヤ人は立ったまま、両手を広げ、手のひらを上に向けて祈るのだそうです。また、ひざまずくとは、ひざを折って身をかがめるという意味で、片膝をつくことではありません。パウロは、神様の前に出てひれ伏して祈りました。パウロの祈りは、熱烈だったのです。

 

 パウロは、教会の人々のために、真剣に祈っていました。パウロは、神の家族としてどうあるべきか、イエス様を信じる信仰者としてどう生きるべきかについて、主にある兄弟姉妹たちを導きたかったのです。この祈りでパウロは、クリスチャンの生き方について、三つのことを言っています。

 

  一つ目は、内なる人が強められるように、ということです(16節)。「内なる人」という言葉ですが、特別な意味があります。その言葉は、ギリシャ語を使う人は日常的に使っていて、人間の「理性」、「良心」、そして「意志」のことを「内なる人」と呼んでいました。英語の聖書ではinner manという言葉を使っていますから、外見を除いた「人の人格そのもの」をさしていることになります。Inner manを英和辞典で引くと、精神、霊魂(、胃袋、食欲)を示す言葉でした。ですから、パウロは第一に、私たちクリスチャンの内なる人である「人間の本質」が強められることを祈っていたのです。どんな人でも「内なる人」に弱さがあるのですが、たとえクリスチャンだとしても、その例外ではありません。

どんなに立派にクリスチャン生活を送っているように見えても、「内なる人」の弱さはどこかに隠れているものです。ではどうしたら、「内なる人」が強くされるのでしょうか。それは、イエス様を信じた私たちに、神様が送って下さる聖霊の働きによります。決して、人の努力を軽く見ているわけではありませんが、「内なる人」は、私たちの努力では十分に強くならないのだと思います。知識や体力については、勉強したり、練習を重ねたりすることで自分自身の努力で強くなることも可能ですが、「理性、良心、意志」については、難しいですね。私の「内なる人」は、すぐに不平を言うものですから、イエス様に倣おうとしても、頭と体はその「内なる人」に支配されているのです。ですから、「内なる人」が強められないと、クリスチャンであってもすぐに変われないのです。それでも、私たちクリスチャンは自分の弱さを感じた時、私たちの心の内に宿っておられるイエス様に、聖霊による助けを求め祈り続けることで、「内なる人」が強められていくことに望みを抱いているのです。


 私たちの「内なる人」は、充分に強くないことを知っています。例えば、「いつも喜んでいなさい。」(一テサ5:16)というみ言葉などは、自分の弱さを教えてくれます。いつも喜んでいるためには、祈ることが必要です。正直言って、「いつも喜んでいる」ことは、難しいです。努力したとても、顔は笑っていても、心の底では、つぶやいている自分に気づくと思います。自分の「内なる人」の弱さを知って直そうとしても、自分自身ではどうにもできないのです。それでもできることは、あります。イエス様に、そういう弱い自分を変えてくださいと、お祈りすることです。 

 

 パウロは、このことを17節で『3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。』という表現をしています。

つまり、イエス様を受け入れる信仰をもつことによってこそ、神様は私たちの心に住んでいて下さり、聖霊が私たちの「内なる人」を強くして下さるのです。

 

 二つ目は、イエス様の愛を知ってほしいということです(18~19)。もちろん、私たちがイエス様の愛を知っていたとしても、それは部分的なものにすぎません。イエス様の愛のほんの一部を知るだけでも、私たちはイエス様を信頼し、愛する者になれます。ですから、私たちはイエス様をもっともっと知ることで、いっそう深く信頼し、愛する者になるのです。・・・残念ながら、イエス様の愛をすべて知ることはできませんが、イエス様の愛を体験する度に、イエス様の愛を周りの人と一緒にあずかりたいという気持ちが溢れるのだと思います。自然と、イエス様に倣って、相手を大切にし、その人格を尊び、共に生きようとするのでしょう。

相手を大切にすること。それは、相手の存在を認めることです。イエス様は、どんな時にでも私たちの存在を否定されません。私たちが、たとえどんな酷い罪を犯したにもかかわらず、イエス様はわたしたちを受け入れてくださいます。そして、私たちがこの世に生きることを、イエス様と歩むことをお認めになるのです。

 それなのに、私たちの中では相手の存在を否定する言動がなくならないのです。

人種差別もそうですが、誹謗中傷や日常の何気ない言葉も、人を否定した言葉は、相手を深く傷つけます。そこには、イエス様の愛が必要です。イエス様の愛と、聖霊が働くことが、必要なのです。イエス様の愛は、「傷ついた人」に寄り添います。人は、自分の存在を認められないと、傷つくだけではなく、絶望を感じるときさえあります。「私などいない方がまし」そんな風に私たちが思ったとき、イエス様なら、「あなたが居て良かった」と話しかけられるでしょう。イエス様の愛は、一方的に与えて下さる愛です。神様でありながら、イエス様は私たちと同じ目線まで降りてこられます。そして私たちが「ここにいる」ことを喜んでくださいます。私たちは、「あなたが居て良かった」そのようにイエス様が喜ばれただけで、本当に救われるのです。

  

 三つ目は、「神の満ち溢れる豊かさ」です(19~21)。

「神の満ち溢れる豊かさにまで満たされるように」とは、パウロの祈りそのものだと思います。私たちには、イエス様に倣おうとしても、イエス様と同じようには出来ません。同じように、このパウロの祈りは叶いそうもないことです。しかし、あえてパウロは、叶わないことを承知で、この様に祈るわけです。

 パウロは、祈ることによって「思ったことをはるかに超える」ことが起こると信じていました。20節を見てみましょう。

わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方

 と パウロはイエス様が、「思ったことをはるかに超える方」であると断言しています。

私たちはともすると、祈ってどうなるのか? というように、私たちの経験した範囲で「結果」を予想して、あきらめてしまっているのです。パウロは、祈れば、その予想した「経験した範囲」以上に恵みが与えられることを信じ、そしてイエス様に祈っていたのです。

 例えば、癌になった方が、「癒されるように祈る」場合があります。普通、祈っても簡単には治らないと思われるでしょう。しかし、イエス様に祈ると、聖霊が働いて癒されることも、本当に起こされるのです。パウロは、何度も何度も祈り続けた結果 そのイエス様に祈った結果が 「思ったことをはるかに超える結果」になることを体験していた。・・・そうに違いありません。

 

 みなさんの祈りの課題はたくさんあると思います。個人の夢や心配事や社会の問題の解決などもありますし、イエス様のことを延べ伝えることも祈りの対象です。そのなかで、パウロが、まず 第一に祈るべきだと考えていることは、私たちの内なる人(つまり私たちの心の中にある理性、良心、意志)が強められるように祈ることです。パウロ自身も、思いがあふれ熱くなったのでしょう、この聖書の個所に入ると、急に手紙が祈りへと変わってしまっています。パウロが祈るように、私たちが何よりも祈りたいのは、私たちの内に住んでいて下さる聖霊によって私たちの「内なる人」が強められることです。「内なる人」である「理性、良心、意志」は、イエス様に倣うことによって、イエス様の愛を体験します。すると、もっともっとイエス様に倣う者へと変えられていくでしょう。神様の栄光を現す者の一人になりたいとの、「内なる人」の願いによって、私たちの祈りが強められるのです。

 イエス様のようになろうとすることは、難しすぎます。そのような祈りは、ありえない祈りかもしれません。祈っても無駄なのかもしれません。しかし、パウロは、そんなことには構わずに これからの教会の歩みのために、一人一人の信仰のために祈りました。祈ることで、 「思ったことをはるかに超える結果」を、イエス様から頂けると信じているからです。

イエス様は、「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」です。求めている事、思っていることは、イエス様に祈ることによってのみ、イエス様に頼って祈ったときのみ、そのことが実現されます。

パウロが勧めたように、私たちの「内なる人」が強められるよう、そしてイエス様をより愛することができるよう、また、イエス様の力をもっと信じて祈ることができるよう、祈ってまいりましょう。