使徒13:44-52

 すべての人に

2022年 94日 主日礼拝

すべての人に

聖書 使徒言行録13:44-52

今日は、使徒言行録からみ言葉を取り次ぎます。7月の第一週、第二週にお話ししましたパウロの第一回伝道旅行の続きです。

パウロとバルナバはピシディア州のアンティオキアに来て、最初の安息日に会堂で証をしました。今週の聖句にあるように、パウロは、

『13:38 だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、

13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』とイエス様のことを証しました。すると、それを聞いた多くの人たちが信仰に与かりました。また、パウロの証を「主の言葉」として受け止めたのです。そして、次の安息日にも聞きたいと思いました。その結果です。


『13:44次の安息日には、ほとんど町中の人が、主の言葉を聞きに集まって来た』とあります。

 パウロの言葉を「主の言葉」として受け止めた人が、誘ったのでしょう。ほとんどの町の人々が、パウロの証を聞きにやって来たのです。このときの会堂には、「主の言葉」を聞きたい人々が集まりました。

 結果的に、多くのユダヤ人と異邦人はパウロの言葉を「主の言葉として」受け入れます。このようにして、ピシディア州のアンティオキアには、多くの信じる者が与えられました。

『13:52 ~弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。』とあります。パウロの証によって、この異教の地に新しく弟子たちが生まれたのです。こうして、異邦人への伝道が本格的に始まったわけです。


一方で、何人かのユダヤ人はパウロの言葉を受け入れませんでした。また、中にはパウロの評判が面白くない人たちもいました。ですからパウロへの反発もありました。聖書にも、

 『13:45 しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。』とあります。


 一部のユダヤ人たちは、パウロに集まる群衆を見てねたんだのです。このとき、会堂に集まっていた人たちは、ユダヤ人と異邦人です。(イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々 使徒13:16) 一部のユダヤ人から見ると、まずユダヤ人が救われる権利を持っているとの認識があります。つまり、異邦人よりユダヤ人が優先なのです。そして、律法をきちんと守っている人々が救われるべきと考えています。それは、律法によって義とされると信じているからです。それに対して、パウロの証では、『13:39 信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』と、「イエス様を信じる者は義しい者とされる」と、宣言したわけですから、律法を教える人には、都合が悪かったのは確かです。一方で、異邦人の神様を信じる者にとっては、「律法を守っていない」といううしろめたさから解放されたのでしょう。ですから、ピシデヤのアンテオケにおけるパウロの証は、そこに住むユダヤ人だけではなく、特に異邦人の心を動かしたのです。

 さて、一部のユダヤ人たちがパウロとバルナバをねたんだので、『口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。』と書かれています。あからさまに、ねたんだこと、そしてあからさまに反対するには、理由があります。一部のユダヤ人にとっては、自身が話をするときよりも大勢の群衆が、そして、熱心に聞いていることに嫉妬したのです。また、律法による権威によって立っている彼らにとって、「イエス様を信じる者は義しい者とされる」とのパウロの教えは、受け入れがたいものであります。

 パウロは異邦人たちのことを、一週間前には「神を畏れる者」と呼びかけていました。そして、パウロの証を聞いたのちには、「神をあがめる改宗者」(使徒13:43)となっています。一部のユダヤ人たちは、このように多くの異邦人が、信仰に入っていくのを目の当たりにして、快く思わなかったのです。本来は、多くの異邦人が信仰を得たことを喜ぶはずなのですが、一部のユダヤ人には、喜べなかったのです。その原因は、彼らの考える順番です。ユダヤ人の指導者層にとって、彼らが一番であって、次に一般のユダヤ人、そして異邦人と考えるからです。つまり、異邦人が救われるには、「神を畏れる者」となって礼拝を共に守り、そして神様を信じて改宗者となったならば、割礼を受けてユダヤ人にならなければならない。そして、律法を学び、律法をすべて守るようにしなさいといった考えです。異邦人が救われるには、この手順でなければならないと考えているわけです。まるでそれは、ユダヤ教の指導者が、「自分のようになりなさい。そうすれば救われる」と言っているようなものでした。

 パウロが語った福音は、そうした手順より大事なのは、「イエス様を救い主として信じるならだれでも救われる」という教えでした。異邦人が救われるためには、ユダヤ人になる必要もなければ、律法を厳格に守る必要もありません。異邦人のままで、救われるのです。

 パウロとバルナバは、一部のユダヤ人たちが、「異邦人に人気取りをしている」とか、「律法をないがしろにしている」と考えていることを理解していました。 そこで、はっきりと、ユダヤ人たちに対して、このように宣言します。

『13:46 ~「主の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。』


 「主の言葉」は、まずユダヤ人に語られなければなりませんでした。それから異邦人です。それが神様の計画だったのです。しかし、少なからずユダヤ人はそれを拒みました。ですから、パウロは「私たちは、これからは異邦人のほうへ向かいます」と言うわけです。なぜなら、旧約聖書に地の果てまでの伝道を示されているからです。

イザヤ『49:6 こう言われる。わたしはあなたを僕として/ヤコブの諸部族を立ち上がらせ/イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして/わたしはあなたを国々の光とし/わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。』

 ユダヤ人は、神様から選ばれた民族です。ユダヤ人が選ばれたのは、彼らユダヤ人に神様を宣べ伝えさせるためでした。なのに、異邦人の救いを喜ばない。ということは、神様のみこころからはずれているわけです。 

 パウロとバルナバは、イザヤ書を引用して、異邦人伝道のために神様は、自分たちを召してくださっているとの思いを言います。また、地の果てまでとは、異邦人への伝道のために、どこまででも行くことを指します。


『13:48 異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。13:49 こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。』

 異邦人たちは喜びました。自分たちの家族や知人も救われることを期待したのでしょう。一部のユダヤ人たちとは異なり、素直に同じ仲間が救われようとしていることを喜ぶことができたからです。彼らは「主の言葉」を聞くとそれを喜び、賛美しました。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰に入ったのです。


 ここまで順調に見えますが、一部のユダヤ人たちは、今、「主の言葉」を拒んでしまいました。そして、問題が起こります。迫害が始まったのです。

『13:50 ところが、ユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、ふたりをその地方から追い出した。~』とあります。

 「主の言葉」を喜び、信仰に入って弟子となった人たちが大勢いた一方で、パウロとバルナバを迫害する人たちもいたことが記されています。一部のユダヤ人たちは、神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちを扇動しました。例えば、「パウロとバルナバは、偽の教師である」と強く訴えれば、有力者たちは協力しなくなります。パウロとバルナバに宿を提供することもなくなりますし、集会を開く場所もなくなり、道端で教えても妨害されたことでしょう。実際に暴力的な迫害もあったようなので、ふたりはその地方から逃げ出すしかなかったのです。追い出された二人は、迫害する者らに対して足のちりを払い落として、イコニオムへと向かいました。足のちりを落とすとは、ユダヤの風習です。神を敬わない罪人たちの汚れから自分たちを清めることを象徴していました。ここでパウロとバルナバが福音を拒否した人々に対して、「神様を知らない者」の汚れがついた足の塵を払ってから旅立ったわけです。

それでも、伝道の成果は大きかったのです。

『弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。』とあります。

「主を畏れる者」がパウロの話を聞いて「神をあがめる改宗者」となりました。そして、1週間たって「弟子」となったのです。パウロの証によって、どれだけ信仰が深まったかがわかります。そして、この群れは教会になったのです。また、迫害が始まっているにも関わらず、弟子たちは、喜びと聖霊に満たされていました。

 伝道の妨害や暴力の中にあっても、弟子たちは喜びと聖霊に満たされていたのです。異邦人たちと多くのユダヤ人たちの心の中に聖霊が臨まれ、彼らの心を導いていたからです。彼らが神様の恵みにとどまり、主の言葉を喜び、賛美することができたのは、実に、この聖霊の働きであったということです。聖霊が彼らの心を支配し、助け、支えてくださったのです。


 パウロとバルナバは、このあとイコニオンに向かいます。そのあとも行く先々で、パウロたちは迫害に遭います。命の危険にさらされることも度々でした。ユダヤ人の暴力に対して、パウロはかつてイエス・キリストが弟子たちに指示されたように、足の裏の塵(つまり不信仰で汚れた土)を払い落として、町を去りました。そのような迫害の中で、その地の信徒に生まれたばかりの教会を任せたのです。

 「私たちは異邦人の方に行く」と宣言したパウロたちですが、何処の国に行っても、ユダヤ教の会堂に向かい、ユダヤ人と異邦人に語りかけていますので、ユダヤ人を見捨てたわけではありませんし、むしろユダヤの同胞がイエス様を信じるようになることを祈っていました。

 こうして、イエス・キリストの福音は多くの困難にも関わらず、世界に広められていきます。そのすべては聖霊による導きに支えられたと、使徒言行録は書いています。


 使徒言行録は、使徒ペトロや使徒パウロの働きを書いていますが、本来的には、「聖霊の働き」といった題がふさわしいと思われます。わたしたちは何をするにしても、力不足ですから聖霊が働かれるように祈ることが必要なことばかりです。イエス様に祈ることによって、聖霊が私たちに働きかけてくださるからです。わたしたちの肉の思いを打ち砕き、新しい出会いや働きへの不安を和らげ、聖霊は具体的に私たちを導くのです。イエス様に祈れば、その祈りが聞かれ、聖霊が働かれるからです。わたしたちが与えられている使命は、すべての人への福音の伝道です。私たちは、その使命の前に何ができるかわかりませんが、イエス様に祈れば、聖霊が何をしたらよいのかをも教えてくださいます。神様に信頼して祈りながら働くことで、私たちの使命であるすべての人への福音の伝道は、より豊かに広がるのです。