マタイ7:15-29

祈って御心を行う者に

2023年 716日 主日礼拝  

『大宣教命令』

聖書 マタイ7:15-29

今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書から、山上の説教の最後の部分です。この説教が終わった時、「群衆は驚いた」その様子が書かれています。

『7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。』

 ここで、「律法学者のようにではなく、権威ある者として」と訳されていますが、むしろここは「伝え聞きではなく、自分の言葉で」と、訳した方が良いと思います。なぜならば、イエス様は神様本人のように、み言葉を語ったからです。私たちが語る言葉は、自分で見知ったことだけではありません。過去の文献や先輩から学んで、「誰それは、こう言った」と伝え聞いたことを根拠にお話しすることがほとんどなのです。イエス様は、山上の説教の間中。自分の言葉でお話になりました。そして、初めて聞く言葉ばかりです。ですから、「かの大先生がこう言いました」などと物知りの書記が語るのとは、全く次元がちがったのです。それはイエス様が、神様の言葉を、自分の事のようにして直接届けたからです。その点に群衆が気づきました。ですから、「律法学者と比べて良い説教をした」と受け止めてはいけません。イエス様が神様であるからこそ、天の国のお話ができたと、これを書いたマタイの証しとして受け止めるべきであります。


 偽預言者。現代社会には 関係ないように感じるかもしれません。しかし、実際にカルト宗教と呼ばれるような団体は存在します。また、宗教という名を冠しているものの、単なる集金機関だったり、人権をないがしろにしたりする団体もあります。偽預言者とは、これら宗教と言う「羊の皮をかぶった」狼であります。最近、「キリストの※※」という団体と「世界▽〇教団」からこの教会に複数回コンタクトがありました。電話と訪問ですが、憶えた通りに話してくる上に、何を言いたいのかわかりません。ただ、見かけは世界平和等とこぎれいな装いはしています。私は、電話された方、そして訪問された方には何の意図はないと思いました。熱心に語り掛けてくるのは、たぶんその人たちを送り出した人から、マインドコントロールされているのかな?という印象です。一人は、勧誘しないとステージが上がらないようです。そう言っていました。また、こんな質問もしていました。「あなたは、仕事をしながら牧師をしているのですか?」この人は、無意識に正直なことを言う人なんだなーと思いました。結構、問題な質問なんですね。なぜならば、この教会の経済状態を知ったうえで、その人が送り出されたと思われるからです。だから、本人は何にも考えずに「知っているわけがない」ことを言ってしまったのだと思いました。このように、結構現代でも、身近なところで偽預言者に注意がいると思います。

 イエス様は言いました。

『7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。』

ここで悪い木とは、「幹の芯が腐った」ような木を指します。このような木はとても、良い実を結ぶことが出来ません。それなのに、幹は外見上良いように見えてしまうのです。ですから、外側からしっかり観察しても、この羊の皮をかぶった偽預言者を見破ったりすることは出来ません。しかし、その偽預言者の結んだ実すなわち成果を見れば、悪い木であることははっきりとわかります。イエス様は、偽預言者に気をつけなさいと教えたわけですが、2000年たった現代でも、先ほどお話したように、羊の皮をかぶった偽預言者たちがいます。さらに、性格が良くて従順な方々が、最前線で働きますから、わかりにくいのですね。しかし、最近はネットで評判も調べられます。極端な政治運動や家族観、そして集金に熱心なこと等が書かれていれば、それは羊の皮をかぶった偽預言者と言えます。イエス様以後の時代、使徒たちは偽預言者に悩まされ続けました。イエス様は、この山上の説教の締めくくりとして、この話をしました。この言葉は、現代でも生きています。


 『7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。』

 わたしたちは、福音を聞いて受け入れ、イエス様を信じました。しかし、イエス様は、それに加えて、「天の父の御心を行う」ことが天の国に入る要件だと言うのです。つまり、イエス様を信じるだけでは天の国に入れないと言うことです。どうしてかと言いますと、イエス様の福音は、イエス様を信じて救われる事だけではないからです。この辺りは、スコット・マクナイトが「福音の再発見」と言う本に詳しく書いています。この人はアメリカのアナ・バプテスト派の神学者ですね。彼の言うには、今の福音派は、救いだけを求める「救い派」だと言うのですね。福音には、救いも含みます。そして、イエス様の生涯すべてが福音なわけです。ところが、福音派と言いながら、私たちはイエス様の言うように「天の父の御心を行う」ことにあまり熱心でもなければ、そのための指導・教育も受けていないとマクナイトは指摘するわけです。残念なことに、そのためにどうしたらよいか?は具体的に書いていません。イエス様の言われるように『わたしの天の父の御心を行う者だけが入る』のであれば、まず、天の父の御心を知ることから始めなければなりません。こればかりは、天の父に祈って直接聞くしかありません。それにしても、山上の説教の締めくくりとして、現代の福音派が忘れかけていることを指摘してくるところは、イエス様のすごさだと感じます。

 

 そして、最後の話は、家を建てる者の譬えです。

 この譬えで、「家」とは「信仰生活の見た目」を象徴していることは明らかです。「岩」は、悔い改めと従順を導く確固たる「信仰の地盤」に他なりません。「砂」は、「愚かな」人々の「心」を示します。誉められたいとの思い、自分のこだわり、そのときの感情・欲望等、これらは、情緒的なので簡単に流されてしまいます。「風」、「雨」、「洪水」は、気象現象ですから、家つまり信仰生活に対する迫害や、外からの誘惑を表しています。ところで、イエス様が主に活動したガリラヤ地方には、雨季と乾季があります。冬から春先にかけて小川が急流となります。そして夏になると、水が干上がってしまいます。ですから、家を建てようと場所を探すとしたら、川の周りの平地に目が行くでしょう。しかし、その場所はそもそも川が氾濫してできた砂地です。だから、冬が来ればまた氾濫するところです。

 さて、家を建てる場合、普通は基礎を作ります。穴を掘って、栗石を敷いて地盤をかためてからその上に基礎を作るのです。岩に基礎を作ろうとしたら、岩に直接穴をあけて、その穴にボルトを打ち込んで基礎を作ることになります。こうすると、岩にしっかりと支えられて、家は倒れないわけです。ただ、かなり場所が限られ、手間がかかるので、相当苦労しそうです。一方で、砂地の場合はどうでしょうか?小川に行けば、土地はすぐに見つかります。なぜなら、川の両岸にガリラヤ湖まで、砂地は続いているからです。そして、穴掘りですが、砂だから簡単です。こうして作った基礎では、地盤がゆるいです。砂で基礎を埋めているだけなので、第一に風に弱いですね。風が吹くと家ごと倒れる方向に荷重がかかって、基礎が浮き上がろうとします。第二に、雨が降ると砂が流れます。こうなると、砂に埋まっていただけの基礎が、むき出しになるなって、家を支えられなくなるわけです。そして、最後は洪水ですね。基礎周辺の砂が水で流されますから、基礎が砂ごと持っていかれて、家が流される事態になります。

 この譬えは、一見、同じ立派な信仰生活を送っているように見えても、その地盤である信仰が弱くては、信仰生活が立ち行かなくなる。そのようにイエス様は教えているのです。信仰が弱く砂のような緩い地盤では、なにか問題が発生すると、信仰生活全体が倒れてしまったり流されてしまったりするわけです。

 しっかりした岩。それは、イエス様への信仰です。信仰でイエス様にしっかり抱きついた基礎。この岩の上の基礎は、しっかりと信仰生活を支えます。イエス様以外の地盤に置かれた基礎は、それは砂の上の基礎とかわりません。誉められたいとの思い、自分のこだわり、そのときの感情・欲望等。これらの地盤に信仰生活を建てあげて、見かけの良い家となったとしても、その地盤は砂のように崩れるので、家は何かがあると倒れてしまうのです。家は、信仰生活を象徴します。ある人々は、世俗的な繁栄を、他の人々は信仰以外の事を望んで、その地盤の上に生きています。これらの人々は、危険な冒険をしているんですね。世俗的な繁栄という虚栄を地盤に選んだからです。そして、他の人たちも信仰以外に地盤を選びました。その地盤ですが、信仰によらない地盤は、すべてが砂と同じです。どんなに立派に見える家でも、イエス様への信仰と言う地盤に建てなければ、その家は嵐の時に避難場所として使えない、倒れてしまう家となる このようにイエス様は教えました。

 さて、すべての人は、その一生の仕事を試される時が来ます。裁きの時、嵐が来るのです。そのとき、偽善者や繁栄を願う者そして、信仰を地盤に選ばなかった者には希望はあるのでしょうか? 自慢の家は嵐の中で倒れてしまいます。家を建てる時、絶対に必要な条件は、安全であります。たぶん、だれでも頑丈に建てようとしたでしょう。しかし、建物が頑丈でも、地盤としっかり繋がっていなければ、倒れてしまうのです。イエス様に抱き着くぐらいの信仰をもつ。そうすれば、信仰生活は倒れることが無く、そして私たちの避難場所として、守られるのです。ならば、どうすればよいか?その信仰をイエス様から頂くよう、祈るしかない そう思います。

 

 イエス様の山上の説教は、ここで終わります。イエス様は、権威のある学者のように説教したのではありませんでした。また、預言者として神様の言葉を取り次いだのでもありません。福音記者マタイは、ここで証を書き足しました。イエス様こそ神様である。


 良い木には良い実が結びます。しかし、木だけを見て良し悪しは判断できません。その幹は内部が腐っているかもしれないからです。また、イエス様は、信仰をもつことが終点ではなく、「天の父の御心を行う」ことが必要と教えました。信仰が腐ってしまわないように、信仰の木を育てて実を結ばせるためです。そして、御心を行うためには、強い信仰と言う地盤が必要です。そうでなければ、信仰生活は倒れてしまうのです。だから、祈りましょう。終わりの時までに、良い実が結ぶように。天の父の御心が示されるように、そしてその御心を行うことが出来るように。・・・まだ一つだけ、中心的な祈りがあります。「私に岩のような強い信仰をください」との祈りです。「天の父の御心を行う」このことを憶えて祈ってまいりましょう。