コリントの信徒への手紙一4:1-21

コリントの使徒として


1.唯一の裁き主なる神様

 ここでパウロは自分の立場について話します。パウロはコリントの教会の創始者でした。彼がコリントを離れた後に、他の教師たちが教会を訪れ、力強い宣教によって教会員の心をつかみました。パウロはコリントの信徒たちに、「このようなことはまったくかまわない」、と伝えます。しかし、問題なのは、教会にはパウロのいうことをもはや聴こうとはしないグループができたことです。彼らは、パウロが使徒である、とは認めませんでした。

 パウロは自分の立場を守りぬきます。神様がパウロに与えてくださった異邦人の使徒としての使命に忠実だったからです。ですから、パウロは、与えられた使命の遂行について、神様の前で裁きを受ける覚悟であります。今パウロは、警告します。コリントの信徒たちが「神様の教会であること」を「自分たちのグループに属すること」であるかのように考えていたからです。いつか必ず神様が、皆を裁く日がやってきます。パウロは、神様の裁きの下に自分をゆだねています。それに対して、コリントの信徒の中でグループ同志が裁いていることを不適切だとして、完全否定しています。

2.コリントの信徒たち

 パウロは、コリントの信徒たちを痛烈な皮肉をもって批判しています。彼らは王や裁判官のようなお偉方になってしまいました。一方で、使徒たちはまったく違う待遇を受けました。コリントの信徒たちが自身を高く評価していることと、使徒としての使命のために多くを負っていることを比較して説明します。

『神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです。』

使徒たちの現実   :愚か者、弱い、侮辱されている、飢え、渇き、着る者がなく、虐待・・・屑、滓

コリントの信徒の自覚:賢い者、強い、尊敬されている

 パウロの皮肉でおわらせようとはしていません。「コリントの信徒たちの賜物は、すばらしいものだ」、とパウロは考えています。問題なのは、彼らがそれについて「高ぶっている」ということでした。

3.コリントの使徒として

 コリントの信徒たちは、主の使徒パウロを裁く権利があると思い込んでいました。そして、多くの者はコリントの教会におけるパウロの権威を認めていませんでした。コリントの教会では、多くの教師や使徒に影響を及ぼしていたのは言うまでもありません。パウロは教会の設立者でした。つまり、彼は少なくともコリントの信徒たちにとっては使徒でした。コリントの教会にとって「第一の使徒」であるパウロですから、その使命を他の者に譲り渡すことはありません。コリントの信徒は、このことを認めるべきなのです。コリントの教会を再び訪れるときに、パウロは教会内部を徹底的に調査する予定でした。それが、うれしい再会となるかどうかは、教会員たち自身にかかっています。

 この手紙を見ると、パウロは強い言葉で非難しながらも、そのあとでその真意について丁寧に説明を加えます。コリントの信徒たちに目覚めてもらいたい。そして、コリントはきっと良くなるとの信念があると見受けられます。パウロの最大の懸案は、権威を否定されているパウロの手紙が受け入れてもらえるかにあります。ですから、この省で本題に入る前に、キリストの福音について、また説教者の使命と責任について、再認識するように促します。その後でパウロは、使徒の受けている苦境は、神様から与えられた使命のためであることを訴えかけます。コリントの信徒が、それぞれ神様からの使命を受け止め、それぞれが神様の教会を立ち上げるために働くならば、そこには派閥もグループもなく、全てが神様のものとなるからです。

 このようにパウロは、非常に優れたカウンセラーであり、また手紙の書き手でもありました。彼は、情熱的に語りはしましたが、感情的にならないよう我慢します。そのように抑えつつも、心にあることを強く書き現しています。コリントの使徒としてパウロは、教会を「グループの持ち物」にされたままではおかない、と堅く決意したのです。

 「コリントの信徒への第一の手紙」4章は、パウロがコリントの信徒たちの間に秩序を回復させようとする意図で書かれました。この書は、教会の秩序についての教科書であるだけではありません。主の使徒であるパウロは、私たち信徒の間にも秩序を教えているのです。つまりこれは、私たちにとって非常に身近な事なのです。指導者に対して「高ぶって」声を張り上げて反対するのは、なにもコリントの信徒たちにだけ当てはまる罪ではありません。何処でも、何時でも、指導者たちの言葉を裁いてしまう人々がいるものです。現代に生きる私たちの間にも、「パウロは時として過ちを犯すふつうの人間にすぎない」として、自らを裁く側の人と高ぶってしまう人はいます。それは、私にもあなたにも当てはまることであります。