Ⅰヨハネ5:10-21

 永遠の命

 2020年 9月 13日 主日礼拝

『永遠の命』

聖書 ヨハネの手紙一 5:10-21           


 今日のみことばの最初の部分に永遠の命の説明があります。この手紙を書いたヨハネは、「永遠の命は、神の子を信じている人の内にある。」と確信していることがわかります。そして、その確信を皆が持てるようにこの手紙を書いたわけです。

13節にそのことが書かれています。『神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。』

 

 私たちクリスチャンは、イエス様を「神の御子」と信じて、このイエス様による救いの御業を受け入れていますから、永遠のを持っています。

同じように、ヨハネによる手紙の受け取り手も、イエス様は神の御子だ と信じています。それなのに、ヨハネはあえてこの手紙に「永遠の命を得ていることを悟らせたい」と書いたのですから、何かヨハネが心配したくなるような気がかりがあったのだろうと思います。

 

 私たちは、イエス様は神の御子だ と信じています。しかし、なぜそのように言えるのでしょうか?というような問いに、説明はうまくできません。それでも「私たちは救われて永遠の命を持っています」と、はっきりと言うことができるのです。

それは、「イエス様が私たちの内(うち)にいてくださる」そのことを確信しているからです。イエス様に救われたという確信は、み言葉を頂いた結果齎されます。そしてみ言葉は、私たちの理性にも働きかけますが、私たちの内に入ってくるのは、私たちがイエス様に信頼をしたときなのです。

 

 ヨハネが、次に知らせようとしたのは、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞いてくださる」ということです。

祈ることは、神様により頼んで生きている私たちの、信仰そのものです。祈りについて、「祈ったって無駄だ、何の意味もない」と思ってしまうこともあるでしょう。しかし、その誘惑のささやきに負けないで 祈り続けると、その祈りは必ず聞き入れられるのです。過去にもそうであったように、未来でも祈りが聞き入れられる。そう、確信を持って祈っていけるとよいと思います。

私たちクリスチャンは、イエス様を信じたことで神の子となりました。ですから、神様は、子どもである私たちの願いに、耳をふさぐようなことはされません。私たちのすべての思いは神様の耳に届いているのです。「何事でも神様は聞いてくださいます。」これが、私たちの確信するところです。

  ここには「何事も」とありますから、何事でも祈ることが大切です。私たちは、自分たちで何とかしようとして、神様に祈らないことが意外と多いのではないでしょうか? しかし、「何事でも神様は聞いてくだいます」。しかし、一つだけ条件があげられています。それは「神の御心に適うことをわたしたちが願うなら」ということです。


 さて、ヨハネが言う「神の御心」とは何を指すのでしょうか?

私たちは、祈り始めた時、神様の御心はわかりません。それでも私たちは、自分たちの思いを祈りとして神様にぶつけます。そして、また、祈り続けます。「御心を教えてください」そして、「神様の御心のとおりになりますように。」。お祈りの中で、神様とおしゃべりをしているのですね。そうすると、自分勝手な思いから始まったお祈りは、だんだんと神様の御心によって変わってくるのです。たとえそれが自分の思いであって神様の御心でないときでも、神様はその祈りを聞いてくださっています。しかし、祈った通りにはかなえてくれません。祈りがかなえられなかったり、思いもよらない形で祈りがかなえられたりします。そんな経験から、「ああ、これが神様のみこころだったんだ」と、後になってからわかるのだと思います。そういうことなので、神様のみ心なのかは、後で考えることにして、とにかく何事でも、その場で、その時に祈ることが大切です。

 

  神様が求めておられるのは私たちが私たちの願いを申し上げるということ以上に、神様との親しい交わり(祈りの中でのおしゃべり)を持つことなのです。どんな願いであっても、それを聞いてあげたいと願う親のように、天の父である神様は、私たちとの交わりを求めておられます。ですから、遠慮はいりません。

 

 15節には、『わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります。』とあります。「願ったときに既にかなえられている」ということですが、日本語として少し読みにくいです。原語には、既にとか、分かるという言葉はありませんから、付け加えた言葉が、よくないのでしょう。原語を直訳すると「神が願い事を何でも聞いてくださるなら、神に願うことはかなえられる。」となります。ですから、「神様は、願い事を聞いてくださるかどうか」で、願い事がかなうかどうか決まる。つまり、神様には願うことを叶える力があるので、神様に願い事を聞いていただけるかどうかが、叶うかどうかの決め手になるということです。そのことは、後で出てきますが、神様は願い事を聞いてくださるのです。

 

 これまでは、自分のための祈りのおはなしでしたが、とりなしの祈りについてヨハネは16節17節で触れています。

『だれでも、兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。』

ここで、ヨハネは、死に至る罪をのぞいては、神様に祈れば助けられると説明します。だから、『その人のために神に願いなさい。そうすれば、神はその人に命をお与えになります。』 このようにヨハネは、とりなしの祈りによって、人の罪までもが赦されることを確信しています。

ところで、死に至る罪ですが、聖霊を冒涜することを指すそうです。聖霊を冒涜するものには聖霊が働かないので、神様に祈っても何もできないということのようです。つまり、略略(ほぼほぼ)神様に祈れば、すべての罪が赦されるということになります。

唯一、赦されないことは、聖霊への冒涜と言いましたが、たとえそうであっても、自分の罪を認めイエス様への信仰を告白するものは、許されるのです。

 頑なに聖霊の働きを拒んだとしましょう。これは、死に至る罪にあたります。それなのに、御子イエスは、すべての罪から私たちを清めてくださいます。しかし、自分の内にイエス様を信じる証がないとしたら、その人の内には、神様の入り込む場所がないのです。

しかし、そうであってもなお、自分の死に至る罪を言い表すなら、その罪は赦されるのです。神は真実で正しい方ですから、その死に至る罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

 18節から21節は、alive聖書の訳がわかりやすかったので、紹介します。神から生まれた者、神からお生まれになった方、神に属する者、神の子の使い分けを、わかりやすく訳してあります。また、新共同訳は「知っています」をたくさん使っていますが、原文には全くない言葉です。シンプルだという意味で、この訳の方が理解を助けると思いました。


「18神の子とされている人は、過ちを犯す習慣がなくなる。一人子が守ってくれるから悪魔は触れることもできないのだ!

19私たちは神に属すが、この世界は悪魔の支配下だ。

20そして、神の一人子が来てくれたおかげで、私たちは真の神を知る力が与えられた。だから今、私たちは、ただ1人の真の神であり、永遠のいのちである神の一人子、イエス・救世主キリストの中にいるのだ。

21我が子よ、神以外のものに心を奪われることがないように。ヨハネより」

 

この訳を参考に読み解いてみましょう。

  神から生まれた者とされるクリスチャンは、みな罪を犯さなくなります。罪を犯さないということは、全く罪を犯さない完全な者になるということではありません。クリスチャンでも罪を犯します。しかし、その罪を悔い改め、神のみこころにかなった歩みをしたいと祈るので、その罪に支配された生活を続けることはないということです。また、イエス様に守られますから、悪魔はわたしたちを支配することはありません。そして、イエス様が来てくれたおかげで、私たちは神様であり、永遠のいのちである イエス様の中にいるのです。

 イエス様も悪魔の誘惑を受けられました。同じように、私たちも悪魔の誘惑を受けることはあるのです。どうしたらいいでしょうか。私たちの力では絶対に勝ち目はありません。しかし、私たちには、私たちを守ってくださる方がおられます。イエス様に頼ることです。そうすれば、平安を与えてくださいます。

しかし、私たちの人生にはいろいろな患難があります。神がおられるならどうして・・・と思うような出来事が起こります。なぜそのようなことが起こるのでしょうか。それは、「世の全体が悪い者の支配下にあるから」と、ヨハネは言うのです。それが現実なのであれば、私たちは、悪い者の支配に必ず勝つことができます。クリスチャンはみな、イエス様が守ってくださるという確信を持っているので、大丈夫なのです。

 

 ヨハネは最後にこう勧めるのです。「子どもたち、偶像から自分を守りなさい。」

手紙の終わり方としては、変な言い方ですね。祈っていますよ、とか、いつも主が共にいてくださいますように、と言うのが普通だと思います。「偶像から自分を守りなさい」とのあいさつ文を見たことがありません。しかし、ヨハネはこの手紙で「この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」と言ったので、それ以外のものは偶像でしかない、決して神ではない、と言っているのです。

 

 真の神はイエス・キリストです。この方こそ、永遠のいのちです。本物のいのちはイエス・キリストの中にあるのです。本当の喜び、本当の幸せ、本当の希望、本当の平安、本当の満たしは、イエス・キリストにあるのです。イエス様に代わるものはありません。いのちをもたらすことは、イエス様しかできません。神様が人としてこの世に下さったイエス様、このイエス様を信じ、み言葉を聞き、祈ることで、イエス様との交わりを持つ中こそに、永遠のいのちがあるのです。

ヨハネの教えるように、イエス様に信頼し、み言葉を聞き、祈ってまいりましょう。