マタイ5:33-48

敵を愛しなさい

 1.誓い

 自らの言葉を、必ず行うことを保証する事。誓う場面には注意深くしなければならない趣旨の記事が、聖書の中にはあります

 人の誓い」は、「どうせ口だけ」等と本気にされないから、「神様に向けて誓う」ことで、信頼を得ようとするものです。また、特に「自己呪詛的」な誓いは、誓いが守られなかった場合に、自ら呪いがかかることによって、それを避ける自分最大限の努力を約束することを指します

  軽はずみな誓いで思わぬことが、おこった例:サロメの踊りのご褒美(バプテスマのヨハネの首)

2.復讐

 復讐で得るものは、何か?考えてみましょう。 「復讐への復讐の心配」でしょうか?? 復讐の失敗(返り討ち)でしょうか?

 たとえ、復讐に成功したとしても、復讐する側も復讐されるどちらとも、大事な者(物)を失う結果には変わりはなく、復讐に加えて略奪でもしない限り、復讐する側にさえも得られるものはありません

 だから、復讐せずに寄り添った方がお互いのために賢い選択になります。聖書はそう説きます。しかし、相手がそれを受け止めてくれることも必要です。そうでなければ、寄り添ったつもりが、上下関係・隷属関係になってしまうのでは、何にもなりません。人にとって、一方的に奪われる関係は避けたいのです。

 しかし、聖書は、「悪人に手向かってはいけない」と言います。また、「求めるものには与えなさい」とまで聖書は言うのです。イエス様の一方的な愛を実践しようとするのは、私たちには重荷なのでしょうか? 

  

3.敵を愛しなさい

  愛敵(「敵を愛しなさい」)は、キリストの究極の課題です。復讐のところで、「悪人に手向かってはいけない」との教えがありましたが、それ以上に行うことが難しいなご命令です。

  しかし、考えてみると、「敵を憎むことも、自分に良くしてくれる人を愛することも、人は誰でもできる。」のです。同じ民族から容赦なく税金を取り立てる裏切り者の悪人(徴税人)でさえ、自分の愛する者を愛することが出来ます。言い方を変えると、私たちは悪人である徴税人と出来ることは一緒なのです。そこに差があるのでしょうか?

  愛敵は、私たちの主観では思いつくこともできない、生き方です。というのは、この目線はイエス様が人すべてを愛しているところに視野を置かないと、出てくる言葉ではないのです。すくなくとも、私たちの目線は、悪人と変わらないからです。愛する者しか、愛せないのですから、愛敵とはかけ離れています。

  しかし、敵であるこの人も、イエス様の愛する者であるならば、祈るしかありません。私たちはイエス様に祈って、その人を愛することが出来るように導いてもらいたいと願います。それ以外、何ができるというわけでもありません。