エフェソ2:20-22

 信徒の教会

2020年 7月 5日 主日礼拝

『信徒の教会』

聖書 エフェソの信徒への手紙2:20-22


 おはようございます。6月の最後の週から1週間、神学校週間です。先週は、東京バプテスト神学校で学んでいる柏兄弟に宣教をお願いしました。そして、今週は按手について、お話をしたいと思います。按手(あんしゅ)について、あまり学ぶ機会がないのですが、新任牧師を教会に呼ぶと、避けては通れなくなります。実際に、就任式等で按手(あんしゅ)をするために、勉強会など準備をするのが一般的です。しかし、今年度は、コロナの影響で勉強会をする機会が取れませんでしたので、皆さんがこれから話し合っていくうえで必要な一般的な按手理解を、宣教の中でお伝えしたいと考えます。

 

今日の聖書の箇所は、英語でcorner stone 文字通り、家を建てる土台の四隅に据える石です。日本語の訳では「隅の親石」と言います。どういうわけか、エフェソ2:20では、「かなめ石」と違う用途の石のように訳されています。

実はkey stoneという、石造りのアーチ橋等の頂点に打つ、楔(くさび)がありまして、その石のことを「要石」と呼びますが、隅の親石とはまったく別のものです。)
 隅の親石は、その目的から言って基礎のなかでも一番立派で大きな石から選ばれますし、固い地盤の上にしっかりと据えられるように、形も整えられます。なぜなら、その上に立つ教会の足元がしっかりするためです。今日のみ言葉を見ると、教会には、キリストイエスという隅の親石。そして、土台全体には使徒や預言者が据えられます。その上に神の家族である私たちの教会がある。そう書かれています。このみ言葉の中で、教会員は「私たち」と表され、ひとくくりです。「私たち」には、教師も、執事も、すべての教会に集まる人々が含まれます。その「私たち」の全てが、神の住まいを建て上げるのに関って、それぞれの持ち場で教会を支えるということを指し示しているものだと言えます。

 一つ一つの柱・梁はバラバラにではなく、信仰共同体として連なっているからこそ強い教会になるのだと言ってよいでしょう。なにしろ、隅の親石の上に柱が乗っているだけでは、風にも、雨にも、地震にも耐えられないでしょう。教会は、個人の信仰の場所であるとともに、信仰共同体を通じた繋がりで、助け合って、そして励ましあっていく集まりです。そして、教会の牧会とは、そうした一人一人の信仰を共同体の働きで、適切に結びつけることだと思います。そういう働きがあってこそ、教会は強く立っていくでしょう。その牧会、信仰共同体である教会の牧会は、牧師をはじめとしたすべての信徒が担うもの。それが、プロテスタント教会の一般的な考え方です。

 

 その考えは、あの宗教改革者マルティン・ルターが、「ローマカトリックの聖職者が持つ権威に、疑問を持った」事から始まります。当時、ローマカトリックは、一般に免罪符(贖宥状)といわれる、札を売っていました。具体的には、本拠地のサンピエトロ寺院を建て替えるために、罪の赦しを売ったわけです。「ローマ法王に罪を赦す権威がある」とはおかしいと思うのは、マルチン・ルターだけではありませんでした。聖職者にみ言葉を語る権威があることは、明らかですが、聖職者に他に権威を持つなどとは、聖書のどこにも書かれていません。そういうことから、マルチン・ルターは、万人祭司を提唱しました。プロテスタント教会では一般に、御言葉を取次ぐ者たちを単に先生、奉仕者、僕(しもべ)、執事等と呼んでいますが、御言葉を取次ぐということ以外に何の権限も認められていません。そしてすべての教会に集まる人々が、牧会に係るのです。

 日本バプテスト連盟の考え方ですが、牧師とは職分(仕事として担っている役割)であって、身分ではないという立場をとります。一方で、「信仰共同体」のなかにあっては、牧師は一教会員です。この教会の規則でも、牧師と、執事で執事会を構成しますが、発言権も、決定権も平等です。このように、多くのプロテスタント教会では、「信仰共同体の運営」に民主主義の手法が適用されます。「御言葉」と「民主主義」が適度に影響し合い、調和し合うのが教会だと考えてよいかもしれません。

 

 次に、バプテストが会衆主義教会であるということをお話します。カトリックでは、ローマのバチカンを頂点として、全世界のカトリック教会が一つの教会です。それに対して、多くのプロテスタント教会は、宗派に所属して、その宗派に連なる教会全体で一つの教会となっています。例えば、日本基督教団やルーテル教会は、全国の所属教会で一つの大きな教会を作っています。それに対して、バプテスト連盟では、教派としては一緒の教会ですが、各教会一つ一つ、つまり集会場所ごとに違う教会となっています。その礼拝場所に集められた群れに、教会としてのすべての権限が託されているのです。ですから、日本基督教団であれば、教派公認の牧師さんがいますが、バプテストの群れでは、公認された牧師はいません。バプテストのような会衆主義教会では、牧師を任命することも各教会に任されているのです。そして、教派としての礼典理解についても、同じように各教会に任されています。言い換えると、バプテストでは、教派としての礼典理解をもっていないと言うことになります。そのこともあって、バプテストでは各教会特有の礼典理解にのっとって、牧師に礼典の執行を委託することになります。その委託を象徴するのが「按手式」または、「就任・按手 感謝礼拝」です。ですから、各教会は、教会特有の「按手理解」について、良く確認しておくことが必要です。

 経堂バプテスト教会の礼典は、バプテスマと主の晩餐であると、教会の信仰告白に記載されています。一般的に、「按手」とはこの礼典の執行を牧師に委託する事を現わす行為を指します。カトリックでは、この行為自体が礼典となっています。バプテストでも、按手が「資格」をもたらす「制度的な儀礼」であった時代がありました。それは、少なくとも1988年までは、普通の事でした。

(1988年に連盟理事会で承認・議決採択された「按手礼についての宣教研究委員会からの答申について」によって、各教会で按手理解が見直され始めた)

 今でも、1988年以前の理解に近い運用をしている教会もあるようですので、1988年以前と、その後の幅広い考え方を挙げてみます。バプテストでの一般的な理解は、この中にほぼ入っていると思います。

1.1988年以前「按手を授ける牧師」が協議して、按手を授けるかどうかを決定

   「按手で得られる資格」:祝祷、主の晩餐、バプテスマの執行権限、

               年金受給資格、(一人前との評価)

 これだけの説明で、バプテストの会衆主義と合わないことが解ると思います。

会衆主義教会では、教会員全員が直接の議決権を持ちます。それなのに、教会外部の牧師によって、「按手」の提案と、「決定」を頂くのでは、会衆主義に合わないです。また「身分」についてです。按手を授ける牧師、按手を受けた牧師、按手を受けようとしている牧師、信徒と階層のようになっています。

 

2.最近の傾向 「教会」が按手を決定し、牧師就任式等で按手理解を披露

 ① 何時するか?

   牧師就任時/牧師の見習い明け/教会員の働きに按手が必要と認めた時

   /伝道にスタッフを長期派遣する時/教会が新たな働きを委託する時

 

 ② 赴任から按手までの期間の制約

   見習い牧師 (礼典執行なし/祝祷なし)(礼典執行なし/祝祷あり)

   礼典を委託することを前提に招聘した牧師(礼典執行/祝祷あり)


 ③ 按手で得られること

   信頼構築の第一歩 (教会員と牧師間、近隣教会間)

   委託内容、教会・牧師の信仰告白の相互確認

   

 連盟には、牧師の認定もなければ、牧師の仕事内容に決まりがあるわけでもありません。ですから、牧師を招聘する教会とそれを受諾する者の間には、何の保証もなく不安や戸惑いもあるでしょう。しかし、互いの関係を信頼し、教会が立てた牧師に「手を置いて」神の祝福を祈り、聖霊の豊かな働きに委ね、主から託された福音宣教の業を共に担っていく。この祝福の祈り、「委託/受諾の意を表す」事と「神の祝福を互いに祈る」事は、按手を受けたことのある牧師の場合でも必要なことです。

 「祝福を祈る」という言葉が出てきましたが、通常の礼拝の中で考えると「祝祷」と読み替えていただければ、良いと思います。牧師が、礼拝の最後に教会の祝福をお祈りする。これは、牧師の大切な役割(職分)です。祝祷について、良く話題になるのは、教会の牧師として招聘したのに、教会の祝福(祝祷)は一時的にでも委託しない事例です。(礼典の執行も実は、同じ話になってしまいます。)

そのような場合は、教会の按手理解を連盟内の教会に分かるように説明しなければならないでしょう。なぜならば、牧師として「招聘」したのに、招聘の段階ではその任に当たる資格を満足していないと言える「按手の基準」がその教会にはあるとしか、考えられないからです。つまり、1988年以前の仕組み、又は似たお考えをお持ちなのだと思います。これは、決して否定的にとることではありません。その教会がその按手理解を選んだことと、その背景を説明頂くのであれば、周辺の教会としては、その選びを祝福するでしょう。例えば、新任牧師の持っている「課題」解決のためにベテランの先生をつけて指導いただくということであれば、誰でも納得がいくことなわけです。一方で、赴任と同時にすべてを委託する場合も、逆の立場をとる教会の人たちに理解してもらえるよう、その背景と教会の按手理解を説明する必要があります。

 

 ここまでは、バプテストが会衆主義をとる結果、按手の理解についても各個教会に委ねられているという視点で、按手の変化を宣べてきました。一方で、聖書には按手の記事が、数多く書かれています。その中から代表的な記事を紹介しますので、按手とは元々は何だったのかを考えてださい。聖書を通して、どんな時に、何のために按手をしたのか?。その本来的意味から、私たちは「何のために按手か?」を私たちの言葉で説明することが必要だと思います。

【祝福(手を頭の上に)】

創世記『◆ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する

48:1 これらのことの後で、ヨセフに、「お父上が御病気です」との知らせが入ったので、ヨセフは二人の息子マナセとエフライムを連れて行った。~48:13 ヨセフは二人の息子のうち、エフライムを自分の右手でイスラエルの左手に向かわせ、マナセを自分の左手でイスラエルの右手に向かわせ、二人を近寄らせた。

48:14 イスラエルは右手を伸ばして、弟であるエフライムの頭の上に置き、左手をマナセの頭の上に置いた。つまり、マナセが長男であるのに、彼は両手を交差して置いたのである。

48:15 そして、ヨセフを祝福して言った。「わたしの先祖アブラハムとイサクが/その御前に歩んだ神よ。わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。

48:16 わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。どうか、この子供たちの上に/祝福をお与えください。どうか、わたしの名と/わたしの先祖アブラハム、イサクの名が/彼らによって覚えられますように。どうか、彼らがこの地上に/数多く増え続けますように。」

創世記には、多くの「祝福」の記事がありますが、手を頭の上において祝福する「按手と同じ所作」は、この記事で初めて出てきます。ですから、按手は元々は、「祝福」だったと言えます。


【任命】

民『27:22 モーセは、主が命じられたとおりに、ヨシュアを選んで祭司エルアザルと共同体全体の前に立たせ、27:23 手を彼の上に置いて、主がモーセを通して命じられたとおりに、彼を職に任じた。』 

 モーセが神様に、「次のリーダを決めてほしい」と問いかけた結果、ヨシュアが神様から選ばれました。そして、その任命のために モーセは、「手をヨシュアの上に」置いたのです。任命の時に手を頭の上に置く所作は、その時に神様がモーセに命じたものです。

新約(祝福)マルコ『10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』手を置いて祝福するという、按手の所作が新約でも受け継がれています。

・使徒『13:2 彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」13:3 そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。』

 これは、アンティオケの教会が、パウロとバルナバをキプロスへの伝道旅行に派遣したときの記事です。聖霊の命令によって、新たな働きにつくときに、按手をする。そうしたことがキリスト教の始まりのころから、行われていたということです。もちろん旧約聖書時代から、祝福や任命で按手をしていますから、その流れをそのまま引き継いでいると言えます。

 (他に【いやし】マタイ9:18、バプテスマ後の聖霊伝達使徒8:15がありす)


 以上のように、聖書から見て、「祝福」「任命」等が按手の目的だとわかります。また、その力の元は神様であり、イエス様であり、聖霊の働きであります。教会の祈りによって、その教会に集う者達の祈りこそが、聖霊きと祝福を導くのです。私たちの上に聖霊が働く事を祈りつつ、委託すること、受諾することを確認しあいながら按手の準備を進めてまいりましょう。その過程で、教会が強められると確信しております。この出発が、祝福されるよう祈ってまいりましょう。