2024年 8月 25日 主日礼拝
『キリストに倣う』
聖書 エフェソの信徒への手紙5:1-12
今日は、エフェソの信徒への手紙からみ言葉を取り次ぎます。伝承では紀元62年ごろ、使徒パウロが小アジアのエフェソのキリスト者共同体にあてて書いたと言われています。パウロが著者であるとするなら、パウロがローマで投獄された時期に書かれたということになります。紀元62年ごろと言いますと、パウロが第三回伝道旅行の帰りに、エフェソの指導者たちと再会してから4年たっています。エフェソの信徒への手紙は、獄中にあるパウロがエフェソの共同体に伝道を託したものと言えるでしょう。
『5:1 あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。』
今日の聖書は、神様に倣う という視点で語っています。キリスト者となったならば、世の慣わしに縛られるのでなく、神様に倣う者としての生き方が求められています。そして、「神に倣う者となりなさい。」との言葉は、聖書の中でエフェソの信徒への手紙にしかありません。これは、パウロの言葉、「キリストに倣う者」(1コリ1:11)と同じ意味であります。この言葉も、聖書の中には一か所しかありません。
パウロは、神様に愛されている子どもとして、「神様の子供らしく歩む」こと、を命じています。そのためにキリスト者が注意したい事として、二つを挙げています。
第一に、「5:6むなしい言葉に惑わされないこと」です。
第二に、不従順な者の「5:7~仲間に引き入れられないようにする」ことです。
この二つは、信仰生活を保つために大切です。むなしいとは「空(から)」という文字に「しい」と送った言葉で、文字通り第一の意味は、中身が空っぽである事です。(虚しいと書く時もありますが、意味は同じです)。2つめの意味は、やることや、言葉に内容がないことです。そして、3つめの意味は役に立たない、やるだけの価値がないとの意味です。ほかに、はかないことつまり、「せっかく頑張ったのに手に負えなかったよね」というやる背のない心情や、意味が無いこと、道理が無いこと、死んで魂が無いことを指します。原語のギリシャ語【ケノス(κενός)】は、意味が 空っぽ 、手ぶらで、愚かな 、無駄なです。ですから、ここでの「むなしい」とは、人の心情ではなく空っぽである状況だけを指します。意訳しますと5:6は、このようになります。
「だれも、罪を弁解しようとする言葉にだまされてはならない、なぜなら、そのようなことのために、神の怒りが不従順の子らに臨んでいるからである。」
空っぽな言葉は、神様から出たものではありません。神様の言葉は、空っぽでも、愚かでも、無駄でもないのです。そして、空っぽな言葉を使う時、私たちには使う理由があります。神様に従っていないことをごまかすために、愚かで無駄な言い訳をするのです。だから、不従順な者の「仲間に引き入れられないようにする」ためには、キリスト者として救われた事、「キリストに倣う者」としての自覚が必要であります。
キリストに倣うとは、具体的には、何が善であり、正義であり、真実であるかを求めることに始まるのだと思います。正義や真実を語るならば、その言葉は、神様から出ています。神様の導きにより真実が示されるのです。そのためには、まず御言葉からはいりましょう。御言葉をヒントに、「神様のみ旨はどこにあるのか?」を祈り求めるのです。祈り求めるとき気を付けたいのは、自分の思いを通すために 神様のみ言葉を空っぽな言い訳に使ってはいけない事です。「キリストに倣う者」として、まず先にイエス様のみ旨を求める。それが、求められているのです。もし、先に自分の心に聞いたならば、私たちはイエス様のみ旨に従わないでしょう。そして神様に従わない空っぽな言い訳が、そこに残ります。神様に従わないこと。それは罪なのであります。そして、罪をごまかすために使う言葉は、実に空っぽです。
「空っぽな言葉に惑わされ」たり、不従順な者の「仲間に引き入れられ」たりすることを、神様は喜びません。それなのに、私たちは神様を喜ばすよりも、自分の望みをかなえたいので、「空っぽな言葉に惑わされ」、不従順な者の「中間に引き入れられ」そうになるのです。
『5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。5:11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。』
「実を結ばない暗闇の業に加わらないで」とパウロは言います。空っぽな言葉には、人を救う力はありません。むしろ、人を破滅へと誘う恐ろしい力を持っています。パウロは、暗闇の業に加わらないだけでは不十分だと言います。もっと積極的に、「暗闇の業を明るみに出す」生きかたをキリスト者に薦めているわけです。暗闇とは、神様に従わない世界です。明るみとは、神様を求め、神様に従う光ある世界を表しています。
ヨハネによる福音書では、この世に降った真の光キリストについて、このように語っています。
ヨハネ『1:9 その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。』
ヨハネ『8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」』
このように、ヨハネは世の光としてのイエス様と、キリスト者の関係を示しました。パウロが光の子と言っているのは、キリスト者となった神の子たち(つまり私たち)の栄光を示すためではありません。この世を照らすキリストに倣って、暗闇ではなく光の中を歩くこと。キリスト者としてイエス様に従うこと。それが、キリスト者の使命だと教えているのです。つまり、この世の「暗闇の業」を光のなかに曝しなさいとの命令であります。真の光を持つキリストが現れたこと、その光の言葉によって、全ての人が光の子となるようにとパウロは教えるのです。
『5:13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。5:14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」』
パウロはこの言葉で、キリスト者を慰めました。
「すべてのものは光にさらされて、~みな、光となるのです。」
この言葉は、光の子とされているキリスト者が、自ら光となって輝き、暗闇を新たに照らすことを示します。そして、その新たに照らされた暗闇は、同じように自ら光となって輝きます。こうして、この世の闇はすべて光に照らされる。全ての者がキリスト者となる その希望と慰めがこの言葉にあります。暗闇の中で眠っている者も、その眠りから目覚め、光となって輝くのです。
『5:14~「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」』
参照している元の詩ですが、イザヤ60:1-3だと言われています。
「キリストが光となり、暗闇の中で眠っている人を目覚めさせ、照らし出す」と歌っています。と同時に、この詩は、キリストの義に与る福音(良い知らせ)でもあります。この福音によって、闇に包まれていた人は自分が罪人であることに気づかされ、目覚めさせられる、そういう詩であります。
キリストにある者の信仰の力の元は、御言葉と聖霊です。御言葉に聞き、聖霊に満たされる生活が何よりも大事です。ところが、人はおろかです。何かに満たされることを求めてしまいます。パウロは、人に分別を求めて、このように教えました。
『5:17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。』
ここで、言いたいことは、17節の「主の御心」を悟ること、そして19節です。
5:19を、直訳してみたいと思います。「互いに語り合うように、詩篇や賛美歌、霊的な歌を歌い、イエス様に心をふるわせて賛美しましょう。」
御言葉を語り合うように賛美をすれば、聖霊は賛美を導きます。また、賛美によって聖霊が満たされ、イエス様の御心を私たちに悟らせるのです。
『5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。』
聖霊の働きは、信仰生活の全ての事を祝福します。その祝福を、感謝しましょう。いつでも、どんな時でも、キリストに倣いながら神様に感謝する。そこに至るまでの祈りと、讃美があるならば、私たちは必ず聖霊に満たされます。キリスト者はキリストに倣う者です。その感謝と喜びをもって、イエス様の御心を知り、そしてイエス様に倣って、光輝いてまいりましょう。