1.レビラート婚
また、新しいイエス様の敵が登場します。「サドカイ派の人々」です。サドカイ派というのは、復活を信じない人たちです。それ以外のことはあまり聖書には、書かれていないのですが、このサドカイ派たちは、モーセ五書と呼ばれる律法をとても重んじていました。そして、そのモーセ五書には復活のことは書かれていないわけです。それで、19節にあるように申命記に書かれている律法を読み上げました。これは「レビラート婚」と呼ばれ、夫が亡くなった場合、その妻は兄弟に嫁ぐことによって家系と財産を守るという考え方があったわけです。
申命記『25:5 兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、25:6 彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。』
私たちには少し理解しにくい結婚観ですが、家中心の社会をもつ日本でも、少し前まではこういう考え方はありました。サドカイ派は、復活がないことの証拠として、意図してここを引用しているわけです。「夫の生き返りを待つことなく、夫の血筋の子孫を残す」。それはつまり、モーセの律法では、永遠の命に関心がなく、この世の代を繋ぐことに熱心である と言うことです。 そして、悪乗りでしょう。続いて「七人の兄弟がいて、その兄弟が次々に死んでしまった場合、その長男の妻は復活の際誰の妻となるのか」と質問を投げかけます。言いたかったのは、「命の復活があるとしたならば、それが起った時に大変な矛盾と混乱が起こります。そんな、事件は聞いたことがありません。そもそも復活などは無いので、矛盾も混乱も起きないのではないですか?」との問いです。私たちもサドカイ人と同じような考え方を持っている気がします。
復活という言葉は、一番目の意味としては「死んだ者がいきかえること、よみがえり」となっていて、二番目に「元の状態に戻すこと」となっています。そのためでしょうか。私たちは復活ということを考える時に「元の状態にもどること」ということをイメージしているのだと思います。そのため、死んだあとでクリスチャンはよみがえるのだとすると、それは元の状態になることだと、つい考えてしまうのです。死んでしまったペットと天国で一緒に暮らす。家族もまた天で同じように家族として暮らす。あるいは仲良し家族の場合も、天ではみんな近くに住んで一緒に暮らせるというような夢を持つわけです。
けれども、そのように幸せそうな家族像があるのかもしれないのですが、単純な思い込みは考え直す必要があるでしょう。どこか自分に都合のよいものを思い浮かべているだけなのです。もちろん、完成された神の国ということですから、すべてのものが完全なのだということは想像するわけですが、私たちはどうしてもこの地上の延長にあるものを思い描いてしまうわけです。
『12:24 イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。12:25 死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。』
イエス様はここで「聖書(複数形)を知らないのか」「神様の力を知らないのか」と問います。聖書を知らないというのは、自分の価値観で考えていることですし。神様の力を知らないも、同じことです。聖書には神様の愛と知恵と力が満ちています。それなのに、この自分の常識だけに縛られて考えてしまうのです。もちろん、これは仕方がないことでもあります。
2.天使のように
「天使」がどういう存在なのかは、はっきりとはわかりません。私たちはこの天使の姿さえ、私たちのイメージで翼をつけてみたり、頭に輪っかを乗せてみたりしながら、イメージしているわけです。はっきりしているのは、私たちの知らない新しい存在になるということです。
『12:26 死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。』
聖書全体でと言いながら、サドカイ派が問題にしているモーセ五書を引用しながら、しかもモーセが神様から召命を受ける場面で、神様がなんと言われたかを思い出しなさいと言いました。モーセが神様から召命を受けた時、荒野で燃えている柴を見つけます。そして、その柴から神の語り掛けを聞くのです。この時に、モーセがエジプトの王のところに行って、当時エジプトの奴隷となっていた同胞のイスラエル人を解放するよう神様から召命を受けたのです。その時に、神様はご自身のことをこのように名乗りました。
「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出3:6等)と。神様がイスラエルの民を選んだとする信仰は、創世記の第12章、アブラハムから始まります。そして、聖書の中で、神様は何度もご自身のことを、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」という呼び方をしました。イエス様はここで、神様の呼び名は、神様が生きている者の神であることのしるしだと言ったのです。つまり、アブラハムも、イサクも、ヤコブも確かに地上では死を迎えたけれども、今も神の御国で生きていて、「わたしはその信仰に生きている者たちの神である」と言ったのです。つまり、彼らは復活しているし、聖書は律法からずっと今に至るまで、復活を語り続けているのだと言うことです。
復活。それは、私たちの想像をはるかに超えた神様の力が示されることです。この世界の延長にあるものではありません。私たちの神様は、生きている者の神です。そして、この神様に生かされていることを知った者は、みな「神の国」の国民となるのです。
復活の信仰は、私たちに憧れを与えるものです。この神様への信仰に基づく憧れは、失望に終わることはありません。私たちの神様は、私たちが望んでいる姿とは異なる、確かな望みを私たちに与えてくださるのです。