1.何の役にも
『5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。』
律法によって義と認められようとする人は、律法を守ろうとします。しかし、律法は義と認められるための道具ではありません。律法にある割礼によって義と認められようとしているならば、むしろキリストから離れてしまいます。それはキリストよりも、律法に従うこととなるからです。
『5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。』
私たちはキリストにあって新しい者とされました。けれども、罪が無くなったわけではありません。ですから、キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、イエス様を信じる信仰だけが大事なのです。
2.パン種
『5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。』
パウロは今、ガラテヤの信徒たちを惑わせた偽教師たちのことを話しています。パウロは、信仰によって生きることを、走ることにたとえています。ガラテヤの信徒たちは走っていたのです。けれども、その走りを妨げる者が出て来ていました。
『5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。』
偽りの教えは、神様から出たものではありません。その出所は人間です。そして人の教えを聞くように勧めます。聖書を読んで、聖霊に導かれるのではなく、人が付け加えたり、差し引いたりすることによって、神様から出たのではない教えを吹き込むのです。
『5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。』
ここでのパン種は、偽りの教えのことです。偽教師たちがガラテヤ人に教えているとき、彼らはほぼ、もっともなことを話していたでしょう。しかし、ほんの少しのおかしなことが全体を汚します。 パウロは、神様がガラテヤの信徒たちを立ち戻らせると信じています。しかし、惑わす者は、だれであろうとさばきを受けると断言しています。
3.愛によって
『5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。』
私たちは、神様によって召されたことによって、自由を得ています。パウロは、この自由を、肉に罪を犯させる機会としないでください、と言っています。私たちは自由ならば、自分の好き勝手に、肉の思いのままに生きることができると思ってしまいます。けれども、もし私たちが肉の思いに自分自身を引き渡すのであれば、その時点で自由人ではなくなります。肉の欲望の奴隷になってしまうからです。 しかし、キリストは、私たちを奴隷の状態から解放してくださいました。自分のみを愛するのではなく、神を愛して、隣人を愛することができるようにしたのです。
『5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。』
隣人を自分自身のように愛するということは、律法にあることですが、行いで何とかなるものではありません。信仰によってのみ可能となります。私たちは、自分が正しいと認められるために不可能を可能とする努力をする必要がなくなりました。それゆえ、自分自身を他の人たちにささげていくことができるのです。偽教師たちは違います。人を愛するということは、自分が義と認められていることを知って初めて愛することができるのです。