2025年 10月 5日 主日礼拝
「神の国はあなたがたの間に」
聖書 ルカ17:20-37
ルカによる福音書からお話しです。お話に入る前に「神の国」と「人の子」について、確認したいと思います。
まず、「神の国」です。
マルコ『1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。~』― これがイエス様が伝道を開始したときの言葉でした。「神の国」と訳されたギリシャ語「バシレイア:βασιλεια」は、「王国、王の統治、王の支配」という意味で、宗教的には日本語約の通り「神様の権威をもって統治している世界」を意味します。また、「天国」とも呼ばれますが、もともとは、「主(ヤハウェ)を神とする国」(詩編33:12,144:15)のことで、「主の名をみだりに呼ばない」ために言い換えていたわけです。
イエス様が地上に最初に来たとき、神の国は始まっていました。人々の罪は赦され、その負債は免除され、また、神様のいやしに与るなど、神様の支配が始まっています。にもかかわらず、ファリサイ派の人々をはじめとする宗教指導者たち、そして群衆は、そのことに気づきません。そして彼らは、ローマからの独立を目指して、政治的メシアを待望していました。ですから、ファリサイ派の人々の「神の国はいつ来るのか」という質問は、メシアの軍隊はいつ立ち上がるのですか?との問いだったわけです。
次に「人の子」についてです。ルカによる福音書には28節にわたり30回も「人の子」という言葉が出てきます。この言葉は、新約聖書で使われる場合には特別の意味を持ちます。イエス様だけが、ご自身のことを証しするときに使うからです。普段のイエス様は、自分のことを「わたし」と言っていますので、「人の子」を使うときは、意図があると思ってください。みなさんに、一度確認して欲しいのは新共同訳聖書の後のp39にある、語句解説です。
人の子(ひとのこ): 旧約では「人間」の意味で用いられることもあるが(民23:19,詩8:5),新約では多くの場合メシア(キリスト)を指す術語である。しかも,唯一の例外(使7:56)を除いて,すべてイエスの言葉の中に用いられ,イエス自身の呼び名とされた。これはイエスの受難(マコ8:31),罪を赦す権威(マコ2:10),受くべき栄光(マコ8:38)を表す。
この解説によりますと、新約聖書で「人の子」とは、メシア(救い主を指す言葉)を表す言葉です。また、「人の子」と言ったのは、例外(ステファノが石打にあったとき)を除き、イエス様だけだと言うことです。「人の子」とは、イエス様が自分自身がメシアであると 宣言するときの呼び方だったわけです。
『17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。』
イエス様は、ファリサイ派の人々の問いをきっかけとして、「神の国」のことを語り出しました。彼らにとって神の国がやって来ることは、重要な関心事でありました。また、彼らはそれが「軍隊の行進のようにやって来る」と考えています。そういったファリサイ派の人々の多くは、イエス様に敵対しています。一方で、ファリサイ派の中にもイエス様を信じている人々もいました。だから、彼らが、イエス様を貶める目的で聞いてきいた一方で、素直に教えを聞いていた人もいます。そこで、イエス様は、「神の国」について教えはじめます。まず最初に指摘したのは、「神の国は、見える形では来ない。」でした。この答えに始まって、イエス様は、神の国とメシアについて、ここでは「人の子」という言葉を使って教えます。
『17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」17:22 それから、イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう。』
イエス様は、神の国は人の目に見える形、つまり物理的に観察できるような形ではなく、「あなたがたの間にある」と言いました。この言葉には、イエス様の言葉や行いを通して、神の国がすでに近くにあることが示されています。しかし、ファリサイ派の人々は、そのことに気がつかなかったようです。だから、今まで通りローマの支配から解放してくれるメシアを求め続けました。イエス様はメシアですが、そういった政治的なメシアではありません。そのために、自分のことをメシアとは言わずに「人の子」と言ったのだと思われます。
新約聖書の中で、「人の子」と呼ばれるのは、イエス様のことです。他の人はだれも、「人の子」とは呼ばれていませんし、名乗ることもありませんでした。イエス様は、イエス様自身のことを指す言葉として、それも救い主を指す言葉として「人の子」と呼んだのです。それは、イエス様自身こそがメシア救い主であるとの宣言でした。
福音書の中で「人の子」の記事を読んでいくと、「人の子」の姿が見えてきます。大きく三つに分けられます。
地上での権威を示すメシア/人々に拒絶されるメシア/神の国の審判者としてのメシアの三つの姿です。
これらの姿は、地上で伝道しているイエス様であり、十字架で苦難を受けるイエス様であり、そして、再臨するイエス様です。つまり、イエス様が地上に来たことから始まり、受難、再臨へと繋がるのです。まさに、「天の国」が人々の間に来ている。そのことに気付かされます。
まず、地上での権威を示すメシアです。イエス様は、人の罪を赦したり、救いを宣言したり、癒しの奇蹟を起こしたりと 絶大な権威を現わしていました。実際、イエス様には「人の子:メシア」と呼ぶにふさわしい権威がありました。また、イエス様はダビデの家系から出たという王の血筋的な権威をもった「ダビデの子」です。これは、旧約で預言されたメシアであることを示しています。
次に、人に拒絶される苦難のメシアです。イエス様は、メシアの権威とダビデの子としての王家の権威を持ちながら、ユダを治める祭司長たちの権威によって拒絶されました。それだけではありません。捕らえられ、十字架上で苦しめられて殺されます。それがイザヤの預言した「苦難のしもべ」(イザヤ53章)のメシアです。「メシアは罪人らの手に引渡され、十字架につけられる」ことが、あらかじめ定められていたのです。しかし、メシアがそのような定めの中にあるとは、人々は理解していませんでした。そして、彼らは、イエス様を受け入れません。それどころか、彼らは自分たちの望んでいるメシアではないと知ると、イエス様を拒否した上に、十字架にかけたのです。こうして、預言は成就したのです。その3日目の朝、イエス様は復活し、その後天に昇ります。これは、神様の計画であります。
最後に、神の国の審判者としてのメシアです。死から復活したイエス様は、やがてやってきて、すべての人を裁く審判者となります。今日の聖書ではこの再臨のことが強調されています。イエス様が審判者として裁く日はやがてやってきます。これは地上にイエス様が再臨する(再び来られる)時のことです。
『17:30 人の子が現れる日にも、同じことが起こる。17:31 その日には、屋上にいる者は、家の中に家財道具があっても、それを取り出そうとして下に降りてはならない。同じように、畑にいる者も帰ってはならない。17:32 ロトの妻のことを思い出しなさい。17:33 自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。17:34 言っておくが、その夜一つの寝室に二人の男が寝ていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。17:35 二人の女が一緒に臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、他の一人は残される。」』
ここで「人の子が現れる日」、「その日には」とあるのは、イエス様が再臨するときのことです。裁きの時がやってくるのです。旧約の時代にも、裁きの時がありました。神様がソドムの町を滅ぼした時のことです。(創世記19章)このような神様の裁きの時に、家財道具を惜しんで後ろを振り返ってはいけません。ロトの妻は、「後ろを振り返ってはいけない。(創19:17)」との神様の命令に反して、後ろを振り返りました。神様の命令に反したロトの妻は、その時、塩の柱となりました。そのような裁きの日が来るわけです。その日には、屋上にいる者も畑にいる者も、家財を守ろうと家に戻ってはいけない。ロトの妻のように未練や好奇心をもって、振り返ってはならならない と諭しています。そして、この裁きが終わるころ、神の国に入ることが許される者と許されない者とに分けられます。そのことを、「取られる(パラランバノー:παραλαμβανω)」者もいれば、「残される(アフィエーミ:αφιημι)」者もいるとイエス様は言います。「取られる」とは、連れ去られるとの意味で、「御国に入れない」ことを差し、「残される」とは、連れ去られなかったので、「御国に入れる」ことを示します。ここで言っているのは、じたばたしたとしても、この時に取られる人が半分いると言うことです。この時に至っては、私たちはじっと裁きを待つしかありません。
『17:37 そこで弟子たちが、「主よ、それはどこで起こるのですか」と言った。イエスは言われた。「死体のある所には、はげ鷹も集まるものだ。」』
弟子たちは、ファリサイ派の人々の質問「神の国はいつ来るのか」と同じ次元の質問をしてしまいました。「神の国はどこに来るのか」との質問です。イエス様は、すでに答えていました。
『神の国は、見える形では来ない。17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。』
そこで、イエス様は、ヨブ記39:26-30を引用してハゲタカのたとえで答えます。その場所はどこか? それは、神様の決めることです。人は神の国の痕跡を見て 何時か? どこか?を後で知ります。つまり、神の国が来るまで、私たちは何時か?、どこか?は知ろうとしても意味がないのです。しかし、確実に あなた方の間に神の国はあるのだ。そう、イエス様は教えます。そのわたしたちの間に神の国がある。この恵みと希望に与れるように、神の国がわたしたちの間にいきわたることを祈りながら待ちましょう。