1.信仰が逆戻りしないように
パウロは、以前異教徒であったガラテヤの人に対して語りかけています。 ガラテヤの人たちは、神様を知ることにより、異教を捨て去りました。キリストにあって自由にされたのです。しかし、偽教師たちが教会に入り込み、モーセの律法を守らなければ救われないと教えたのです。その教えを受け入れて、彼らはさまざまな儀式を始めました。
『4:10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。』
日は安息日のことです。月は新月のことでしょう。時節は祭り、年はヨベルの年。つまり、ユダヤ教の祭りを守り始めたのです。このようなものを守っているのは、ガリラヤの人々が昔守った異教と何も変わらないと パウロは主張します。教会でイエス様の事を知り、信じ、信仰を告白して、自由になったはずの私たちです。それが、昔からの習慣や決まり事にとらわれる先祖帰りしたのでは意味がありません。
(律法やユダヤの慣習は、イエス・キリストの恵みを土台としていますが、イエス・キリストへの信仰より優先すべきものではありません。)
『4:11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。』
パウロは、自分で福音をガラテヤの地域に宣べ伝えたにもかかわらず、彼らがパウロと異なる福音を受け入れてしまったことに心配しています。彼らは、神様を捨て去ってしまい、キリストを捨ててしまったのでしょうか?。信者であったところから、律法主義者になってしまったのではないか、と心配しています。
2.異常なほど熱心に
ガラテヤの人が悔い改めて、神様に立ち返り、パウロの説く福音に戻ってくれることが、パウロの願いです。ですから、パウロはガラテヤの人に対して、愛情をもって言葉をかけ続けます。
『4:12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。』
「わたしのように」と言うのは、キリストにある自由をもって生きているパウロの姿を指しています。パウロはユダヤ人であるのに、モーセの律法にこだわらずに、ガラテヤの人たちのようになりました。
わたしがあなたがたの中で、ユダヤ人の習慣を捨てたように、あなたがたも捨てなさい、とパウロは説得します。ガラテヤの人は、律法を守ることが、自分たちの救いに必要であると見なしていることが、ここからわかります。パウロは、律法に従わないよう、ガラテヤの人にお願いします。そして、第二回伝道旅行の時に、パウロが迫害にあっている中、ガラテヤの教会はパウロを守ったことを付け加え、ガラテヤの教会への信頼を示しました。
『4:13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。』
使徒パウロは、ガラテヤの人に福音を宣べ伝えたのであって、律法を教えたのではありませんでした。それも、弱さから始まっています。何の病気かは判りませんが、ガラテヤでのパウロの働きは、身体の弱さと障害(頭痛)に悩まされている中で行われました。
『4:17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。』
偽教師たちは、異常なほどの熱心さを示して、ガラテヤの人に接しています。ガラテヤの人たちは、そうした彼らの熱意にひかれて、その教えを受け入れています。ところが、その熱心さは、彼らが信じているものを受け入れたら、そこで終わります。なぜなら、自分たちのところにガラテヤの人を引き寄せることが目的だからです。彼らは、ガラテヤの人を異邦人教会から引き離し、自分たちが支配する宗派を大きくしたいと願っているわけです。すべての異邦人教会は、パウロの自由な教えを受け入れていました。そこでユダヤ派は、ガラテヤをユダヤ教の中心地にすることを望みました。彼らは「優位ではない」という思いから、挽回する目的で引き抜き行為に走りました。
『4:19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。』
パウロは今、ガラテヤの人たちを「子どもたちよ」と呼んでいます。これがパウロの彼らに対する思いだったのです。親が子を思う思いと同じように、彼らのことを慕う思いから、激しい語調で手紙を書きました。そして、今パウロは、ガラテヤの人といっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思いながら、どうしたらよいかと困っているのです。手紙では、その意思伝達に限界があります。感情や口調を伝えることは難しいので、パウロは説得する言葉のために、苦しんでいるわけです。