1.子供のように
『10:13 イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。10:14 しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』
イエス様のようなユダヤ教のラビに、親が子供の祝福を願うことは、よくありました。それなのに、弟子たちは、その親を叱っています。そこには、当時のユダヤ人たちの子供への見方の影響があります。彼らは子供を、神からの賜物としてはいましたが、13歳に成人するまでの間は、価値のない存在のように見ていました。子供は低く見られていたのです。 そして弟子たちが叱ったのは、そこに自分たちのエリート意識があったに違いありません。この記事の直前に、「イエス様の名によって悪霊を追い出していた人について、自分たちに従わないからやめさせましょうか?」と言っていたほどです。イエス様は、当然たしなめたのです。
ルカ『9:42 「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。』
このイエス様の教えは、弟子たちは聞いていたのでしょうが、理解できていなかったようです。さっそく、小さい者をつまづかせているのです。そこで、イエス様は教えます。
『10:15 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」10:16 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。』
2. 富よりも大切なもの
『10:21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」10:22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。』
その人はたくさんの財産を持っていました。これは、第一の戒めに違反しています。
出『20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。』
この人は、「神様」ではなく「富」に仕えている。そして、ここでイエス様に質問した通りに
『永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。』と、行いによってそれを手に入れようとしています。少なくとも、富に仕える立ち位置から脱しなければなりません。そこで、イエス様は「貧しい人々への施し」を提案しました。彼がもし、ここで悔い改めていたら、彼が、自分の富を捨てて、神様に心を向けたならば、どうでしょうか? 決して、「彼が貧しい人に施しをしたら永遠の命を得る」と 教えたわけではありません。行いによる救いではなく、彼自身がまことの神様を必要としていることに気づき、神様を受け入れるならば、聖霊が働いて彼が変えられるのです。そうしたならば、新たにされた彼は、神様に仕え、そして結果として貧しい人にも仕えたことでしょう。
3. 神様にはできる
『10:23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」10:24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。10:25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」』
イエス様は、弟子たちを驚かせます。ユダヤの伝統では、「富を持つ者は、神の祝福を受けている」というのが、一般的な考えです。それを「富こそが、むしろ神の国に入るのに妨げになる」ことを教えたわけです。
『10:26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。10:27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」』
イエス様は、神様の救いを教えました。それは、人には決してできないことなのだということを、「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と表現しました。
4.この世で受ける報い
『10:28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。10:29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、10:30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。』
富が、永遠の命の妨げになることをイエス様が語ったので、ペトロは確かに自分たちは全てを捨て、イエス様についてきています、と自慢げに言いました。自分たちこそが、初めに報いを受けるべきだという思いもありました。イエス様は、報いを受けること自体は否定していません。(29‐30節)むしろ、この世においても報いを百倍受けると言ったことが驚きです。私たちはこの世においても、霊的祝福があり、そして後の世に対しても永遠の命を頂く希望も持っているのです。