2024年 10月 27日 主日礼拝
『イエス様の祈り』
聖書 ヨハネによる福音書17:1-3,13-26
今朝のみ言葉は、ヨハネによる福音書から 「イエス様の大祭司としての祈り」と呼ばれている箇所です。最期の晩餐のとき、イエス様がユダの裏切りを予告して、ユダは晩餐の席から出ていきます。(ヨハネ13-30)その後、イエス様は、ゲッセマネの園に向かうまでの間、弟子たちを教えていました。その教えのあとで、イエス様は天のお父様に祈ります。それが、今日の箇所であります。
『17:1 イエスはこれらのことを話してから、天を仰いで言われた。~』
「これらのこと」とは、弟子たちへの最後の教えです。13から16章がそれにあたります。教えがひと段落して、イエス様は神様に祈りはじめました。
『17:1~「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。』
イエス様は、この祈りの中で、ご自身のことで祈っています。ここで「栄光」とは、天の国での栄光ではなく、十字架にかかる栄光であります。あのむごたらしい、十字架での処刑が「栄光」だなどとは、普通は思いません。けれども、それは、神様がイエス様の「栄光」を示すための計画でした。イエス様は、その神様の計画が成就することを祈っています。神様は、私たちのために、ご自身が愛する独り子を苦しみの下に置こうとしているのです。ただただ、私たちを愛しているからです。神様は、私たちが罪で滅びないように、身代わりとしてイエス様を十字架にかけようとしています。ですから、私たちの罪を贖い、私たちに救いをもたらす十字架は、イエス様の栄光なのです。
『17:2 あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。』
永遠の命を与えるとは、神様が遣わしたイエス・キリストを知らせることです。永遠の命と聞くと、不老不死とかを連想すると思います。しかし、永遠の命に与ることは、私たちがイエス様を知ること そのものなのです。私たちは、日々の祈りの中で、そしてみことばを頂く中で、神様に導かれます。その導きの中で、私たちを愛してくださる神様を知るわけです。そうした神様との関係が、まさに永遠の命です。
『17:3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。』
ここで、イエス様が自分のことを「他人事」のようにイエス・キリストと呼んでいます。こんな言い方があったのでしょうか?。そこで、福音書にイエス・キリストがどれだけ使われているかを調べると、著者のト書きとして、マタイが2回、マルコが1回、ヨハネが1回です。そして、今日の箇所が、福音書本文にある唯一の「イエス・キリスト」だったのです。解説書によりますと、第三者が言っているようなイエス様の言葉使いには、二つの意見があるようです。一つは、ヨハネが自身の信仰告白を書いた との考えです。もう一つは、「イエス様が救い主キリストである」との、イエス様の宣言だというわけです。
『17:13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。』
ここで、彼らとは、イエス様と行動を共にした弟子たちのことです。イエス様は、まずはじめにご自身のために、次に弟子たちのために祈りました。その後で、イエス様は、イエス様を信じる者、そして教会についても祈りました。イエス様は、危険が迫っている人から順番に、祈ったのです。このときすでにユダは、イエス様を裏切って祭司長たちやファリサイ派の人々とイエス様を捕まえる手はずを整えていたわけです。そういう状況でしたので、この祈りは、差し迫った祈りでした。
『17:17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。17:18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。17:19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。』
神様は、イエス様をこの世に遣わしました。同じように、弟子たちをも この後の働きのために神様が遣わしたのです。そして、その弟子たちの働きのためにイエス様は、神様のみ言葉すべてを、弟子たちに教えました。それは「弟子たち自身も神様から遣わされる」からです。しかし、まだ心配があります。
それは、イエス様が天に昇った そのあとのことです。今まで、イエス様は弟子たちを守ってきました。しかし今、イエス様は天の父の御許へと旅立とうとしています。ですから、弟子たちを神様の御手にゆだねたのです。
これは、「弟子たちが、真理を伝える者として捧げられるように、彼らを聖なる者としてください」、という祈りです。
そして最後に、イエス様は、キリストの教会全体に向けて祈ります。弟子たちが信仰に導く人々や、さらに次の世代の人々に向けての祈りです。イエス様は、ふたつのことを祈ります。第一に、イエス様を信じる人々が「ひとつ」であるように、第二に、イエス様を信じる人々が、イエス様の御許(すなわち、神様がいるところ)に行くことです。
イエス様を信じる人々が「ひとつ」であるように、というイエス様の祈りは、当時の教会は、「ひとつ」でなかったからだと思われます。そこには、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との分断がありました。それだけではありません。様々な異端も現れました。だから、教会が「ひとつ」でなかったのです。・・・イエス様は、祈りました。イエス様を信じる人々が、皆ひとつの共同体のなかに、文字通り「ひとつ」となるように と。
このイエス様の祈りは、私たちへの問いかけでもあります。ただひとつの教会が神様の御心なのだとしたら、現在の教会が、大きくカトリック、プロテスタントにわかれている現実。そして、多くの宗派ができているのは、どういうことなのでしょうか?。しかも、一般にキリスト教とされている教会以外にも、多くの宗派があります。たくさんの教会が存在している原因は、何なのでしょうか?。神様の御心をないがしろにしているこの事実を見ると、そこには、神様に従わない私たちがいるのです。だから、その原因を取り除かないまま、教会間の垣根を取り払ったとしても、決して教会は「ひとつ」とはなりません。真の一致は、イエス様を信じること、キリストの内にあります。だから、イエス様の言葉を信じて、イエス様の言葉に従うことが必要です。では、具体的に何をしたらよいのか?それを書いた文書があります。教会の信仰告白です。私たちの経堂教会が1969(昭和44)年5月11日に教会を組織したときの信仰告白です。その、教会の項目を読んでみましょう。
6 教会 キリストの教会は,神のめぐみによつて召され福音を信じ,信仰告
白をなしてバプテスマを受けた信徒の集りであることを信じます。
主, イエス, キリストが定めたもうた礼典をまもり,主にある交
わりを深め,福音を宜教し,愛のわざに励みつつ,主のご委託に答
えるものであることを信じます。
この信仰告白の通りに祈り求めれば、教会は「ひとつ」となると思います。
次に『17:24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。』との祈りです。イエス様は、「人々に栄光を与えるために」とは、祈りませんでした。「人々にイエス様の栄光を見せるため」と祈ったのです。イエス様自身は、父なる神様の栄光の中にいますが、それと同じ場所に私たちが居れるようにと、イエス様は祈ります。すなわち、私たちの栄光が目的なのではなく、「イエス様の栄光を見る」、ことが目的なのです。ですから、私たちも、イエス様にならって、「私たちには栄光はいりません。しかし、イエス様のところに居させてください。私たちは、イエス様の栄光を見たいのです。」と祈りたいですね。
このイエス様の祈りは、弟子たちは、何度も聞いています。それでも、この時にもあえて祈って教えるわけです。なぜイエス様は、何度も繰り返して教え続けるのでしょうか?。それは、み言葉の奥が深いからです。「み言葉から神様を知ろう」、としても、私たちはすべてを知ることはできません。ただ、その時その場面で神様の恵みを感じとってています。だから、時、場所が違うと、同じみ言葉の中に 新たな恵みを発見します。だから、み言葉を何度も受けて、何度も新たな恵みを見つけることで、私たちの内にイエス様のことばがあるのです。そして、それが神様の愛を知ることです。イエス様はその愛について、こう教えました。
『17:26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」』
神様の愛が、イエス様を信じる人の内にあります。それは、イエス様が私たちの内に居続けるためです。十字架の後も、イエス様のみ言葉は多くの弟子たちが教え続けています。そして、私たちは、イエス様のみ言葉を聞くことを選ぶ。それが、神様の愛の内にいることです。その、イエス様の内、イエス様の平安の内にあることを感謝して、み言葉を聞きましょう。