2025年 5月18日 主日礼拝
『いつもあなたがたと共に』
聖書 マタイ28:16-20
今日の聖書の箇所は、マタイによる福音書の大宣教命令からです。先月イースターをお祝いしましたが、そのときに天使は「ガリラヤに来るように」と、マグダラのマリアに告げていました。また彼女は、イエス様ご自身からも直接、その指示を受けています。その結末が、今日の記事です。ペンテコステの一週間前、すでに復活から40日以上たっています。マタイは、この大宣教命令で、イエス様の良き訪れである福音をしめくくりました。
『28:16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。』
イエス様の指示に従って、11人の弟子たちは、ガリラヤに行きました。マタイによる福音書には、イエス様の復活後の弟子たちの様子はありません。ほかの福音書から読み取ると、イエス様が復活したことを知らされていながら、まだ疑っていた弟子たちがいます。それでも、残された11弟子は、イエス様が指示した山に登ったのです。ガリラヤで最も山らしいのはタボル山(ガリラヤ湖の南西約12km)ですが、山上の垂訓をした山の方がふさわしいと言えます。そうであれば、カファルナウムの町近くの山と言うことになります。(本当はどこなのかはわからなくなっていますが、カファルナウム近郊に山上の垂訓教会と呼ばれるカトリックの教会があるのは、事実です。)イエス様の復活を知らされた弟子たちは、イエス様の復活に疑いをもちながらも、イエス様に会いにガリラヤに来たわけです。
『28:17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。』
彼らは、復活のイエス様を礼拝しました。この「ひれ伏す」と訳されたギリシャ語(プロスクネオー:προσκυνέω)は、礼拝するとも訳されます。もともとは、「ひれ伏して地面にロづけをする」という意味です。ひれ伏すのは、相手に対して最高の敬意を示すためです。もし、相手が同等の立場ならば、口づけは頬にしました。一方で、自分がずっと下だと認める場合は、ひざをかがめて、ひれ伏して地面にロづけをするのです。 ですから、弟子たちはイエス様を、王の王、全能の神様の御子として礼拝したのだと言えます。しかし、疑う者もいました。
弟子たちは、イエス様の数多くのしるしを見てきました。そして、多くのみことばを聞きました。そして、このイエス様こそ、待ち望んでいたメシアであると信じて従ってきたのです。しかし、イエス様が、「十字架と復活」について予告するたびに、弟子たちは混乱します。そして、思考が停止したのです。イエス様は、十字架につけられて死んでしまう。弟子たちはそれを聞いて、何も考えられなかったのです。イエス様は、「十字架につけられて殺されて、よみがえる」と 死と復活を予告したのですが、受け入れられなかったのです。弟子たちは、「こんなに数多くのしるしを見たのだから、この方がキリストであるはず。 だから、キリストが殺されることなどない」などと、思ったのでしょう。・・・しかし、現実に、「イエス様は殺されてしまった。」のです。弟子たちの心は、どん底でした。しかし、イエス様の復活を知らされ、時がたって、弟子たちはだんだん分かってきたのです。病人を治したり、波や風などに命令する「しるし」をイエス様は何度も見せました。そして、最も偉大な「しるし」は、死をも支配し、死そのものに打ち勝ったことです。それを、イエス様は自らの命をもって示しました。まさに、イエス様は神様に油そそがれたメシアなのです。彼らは、そのことに畏れを持ち、イエス様の前にひれ伏しました。しかし、弟子たちのなかには、疑う者もいます。
私たちは、神様を信じています。しかしながら、神様のなさることを疑ったり、理解できないことがしばしばあります。ですから、弟子の何人かが「イエス様がメシアであることを疑った」ことはあり得ると言えます。ですから、疑いながらも、弟子たちはイエス様に会いにきた。そこに注目していきましょう。
『28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。』
イエス様の宣教命令の土台には、神様がイエス様に与えた「一切の権能」にあります。権能と訳されたギリシャ語(エクソーシア: ἐξουσία)の意味するところは、権威があって、それを自由に使うことができ、使いこなす能力がある。この3つがそろっていることにあります。この権能は、マタイの書いたテーマの一つでした。イエス様には、ダビデの子として「血筋の権威」があります。そして、山上の垂訓では、権威のある者のように話しました。血筋の権威だけではなく、その権威を示すことができたのです。そして、病人を治したり、悪霊を追い出したり その権威を人々のために使いました。その権威は、「天と地」のどこにおいても有効なのです。イエス様は、天のこと、つまり目に見えない世界を支配しています。そして地のこと、つまり目に見える世界を支配しています。ですから、私たちは、その2つの世界を別々のこととしないで、まだ地上にいる間であってもイエス様に向きあいたいのです。
ところで私たちは、信仰を精神的なものとして、現実の世界とは別と考えがちです? 政治や経済などの世界は現実として考えますが、聖書の物語を、現実としてこの世に起こっていることとは、結びつけないわけです。それでは、「この地上における、イエス様の権威」を疑っていることになります。私たちは、この地上にあっても、イエス様に従うことを求められているのです。この地上で、イエス様を選ぶのか?それともそのほかを取るのか?。それは、本来悩むことではありません。イエス様は、天だけでなく、地においても、いっさいの権威を与えられているからです。そのことを認識した上で、この目に見える世界でも「疑うことなく」イエス様に従っていきたいものです。
『28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』
ここでのイエス様の命令は「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」の一つだけです。その手段として、「行きなさい」「バプテスマを授けなさい」「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」と イエス様は言っているのです。ですから、達成すべき目標は「すべての民をわたしの弟子にしなさい。」だけです。
ここで、弟子とする対象は、「すべての民」です。イエス様は、かつて12弟子を遣わすときに、こんなことを言いました。
マタイ『10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。
10:6 むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。』
このように言いました。この時は「異邦人の道に行ってはならない」と言う命令でしたが、今日の聖書では、「すべての民に」と変わっています。
と言うことは、伝道の対象がこの時に変わったのです。まず、「すべての民」のところに「行」く。そこから始まります。 当時は、ユダヤ人以外の人々に救いのメッセージを語ることは、ありませんでした。なぜならば、「異邦人は神様との契約からはずれていて、汚れているから、交わりをもってはいけない」との言い伝えがあるからです。それが、このときを境に、「異邦人が救いにあずかる」(例えば使徒行伝15章)こととなります。ですから、弟子たちにとって、「行って、すべての民を」とは、「ユダヤ人だけではなく、異邦人の所にも行け」、という命令でもありました。
次に、「バプテスマを授け」ることです。バプテスマと言いますと、ヨハネのバプテスマがあります。悔い改めのバプテスマですね。一方でここでイエス様が言うバプテスマは、イエス様への信仰を表す者が聖霊によってバプテスマを受けることを差します。イエス様は、「父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け」と言いました。新しいバプテスマです。ヨハネのバプテスマは、行ないを悔い改めることを強調していました。 しかし、イエス様の言うバプテスマは、神様との関係を改めることを示しています。神様は、私たちの行いを求めているのではなく、神様に対しての悔い改めを求めているからです。その悔い改めとは、「今まで自分が歩んできた道は、神様に敵対していた。だから今、その歩む道を変えて、神様に従う道を歩んでいきたい。」と言う決意表明なのです。・・・祭司長や群衆がイエス様に敵対したように、私たちもイエス様に敵対していた、そのことを認識しましょう。そのことを悲しんで、今からはイエス様に従っていきたいと、悔い改める。そして、イエス様に従う決意を証しするのです。
次の命令は、「教え」ることです。イエス様のみことばに聞く者を増やすためには、イエス様のことを伝える必要があるからです。
このように、イエス様は弟子たちに「伝道」という使命をゆだねましたが、弟子たちは不安だったことでしょう。ですから、イエス様は約束をします。
『わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』
弟子たちの使命は、決して一人で担うのではありません。仲間たちがいますし、その背後にはイエス様が共にいてくださるのです。私たちも同じです。私たちの足りないところは、すべてイエス様が補ってくださる。イエス様は、十字架上の死から復活した方です。また、天においても、地においても、いっさいの権能を与えられたのがイエス様す。ですから、弟子たちに命じた宣教は、イエス様ご自身が担っている宣教なのです。イエス様の名前によって、救い主であるキリストを世に知らせて、多くの者をキリストの下に置く。その使命は、世の終わり、つまり、キリストが再び来られるときまで続きます。私たちの生きている目的は、この今も生きているイエス様に導かれることです。そしてそれは、イエス様が約束した、「いつもあなたがたと共にいる」という恵みです。このイエス様の恵みが、いつも私たちと共にありますように、と 祈ってまいりましょう。