以前、ここの解説を書いています。簡単に言うと、天国の主人は、「気前が良い人」で、弱い者、困っている者から、手当を渡しました。天国の主人は、明らかにその労働価値が低かったにもかかわらず、平等に扱ってくれた。・・・ということでした。今回は、早くから働いている人の視点で宣べます。
1.誰に向けて?
この譬えは誰に向けて語られたのでしょうか?。
『20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」』という表現があります。そして、似た言葉が先に使われています。
『19:30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。』
実は、20:1は、19:30を受けて、なぜなら(γάρ)で始まっています。金持ちの青年が、施しをしなさいと言われて、その場を立ち去った後、イエス様は弟子たちに教えていました。その続きで、弟子たちにぶどう園の譬えで「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」ことを話したのです。
ですから、直接的には、27節のペトロの質問から始まったのです。
マタイ『19:27 すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」』
ペトロのこの質問を引出したのは、金持ちのユダヤ人青年とのイエス様の会話でした。単純に言って、金持ちの青年は、「律法を守ったので、人々に認められたように、イエス様も認める。」と考えていたのでした。しかし、金持ちだったので、イエス様にこう言われると、あきらめてしまいます。
「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」
お金を惜しんで、弟子となることをあきらめた金持ちの青年を見て、お調子者のペトロは、有頂天です。すべてを捨ててイエス様に従っていたからです。そして、金持ちの青年が、律法を守ると報酬を頂けると考えていたように、ペトロは、「全てを捨ててきたのだから、その行いに対して報いを頂きたい」と言ってしまったわけです。イエス様としては、それを否定して、弟子たちを教える必要があったのでしょう。
2.救いは神の恵み
私たちは、自分たちの努力、つまり、行いによって、救いを得、報いを勝ち取るというのではありません。罪人にすぎない私たちは、ただ神の恵みによって救われるのです。何らかの善さげな、功績を積み上げることによって報いを獲得しようという考えはまちがっています。この世的には、ぶどう園の譬えでの不満のように、労働した成果に比例した報酬の配分が正しいことです。しかし、天の国では神様の恵みは、だれにでも同じなのです。すべての人には、その恵みを受け取る資格はありません。罪人だからです。
しかし、私たちは同じ罪人同士でありながら、「私の方が良い働きをした」と主張するわけです。それは、神様から見たら小さな差でしかありません。だから、働きの多寡で救うかどうかの判断はしません。すべての人が救われるのです。とは言いながら神様は、より苦労した人たち、不安にさいなまれていた人たちを顧みて、先に助けたいのです。
この譬えで、イエス様がペトロに言いたかったこと、それがここの主題だと思います。朝早くからまじめに働いていたということは、早くから主にある平安を頂いてきたことを指します。ただ、だからと言って特に優先して救いに与る、つまり他の人より先に天の国に入れるということではありません。罪人の間で小さい差を見つけて順位をつけても意味がないのです。そもそも、救いは我々の成績の結果ではなく、神様の恵みであることを忘れてはいけません。神様の恵みが救いの根拠である以上、救いは神様によって「後先の順番が逆になる」。このことをペトロなど「自分を上級の罪人と思っている人」は、わきまえる必要があります。
律法主義的な群れでは、「がんばらないと地獄に落ちる」とか、「犠牲的精神で働くほど天国でよい地位につける」などと、報いを求めるのでしょうか? そういった報酬を神様に求めるために、神様に仕えるならば、自分を愛しているだけなのかもしれません。決して、天の報いを期待してはならないわけではありませんが、報酬が足りないなどと、つぶやく。こうならないよう、自戒しなければならなりません。
私たちクリスチャンは、神様の恵みによって天の御国に招かれた者たちです。恵みによって神様のぶどう園で働いているのです。私たちは本来、滅ぶべき罪人だった。私たちは、ただただ神様の恵みの豊かさに感謝して、救いの恵みに与っていきましょう。