エフェソ6:1-9

 神のしもべ 

2022年 5月 29日 主日礼拝    

教会はキリストの体

聖書 エフェソの信徒への手紙1:15-23 

今日は、エフェソの信徒への手紙(エフェソ書)からみ言葉を取り次ぎます。このエフェソ書を書いたのはパウロです。このパウロが書いた手紙はエフェソの教会に向けてと言うよりは、パウロが考えている教会の在り方をまとめたものです。特定の教会に向けて送ったのではなく、方々の教会に送ったものと言われています。そういった経緯とこの手紙の内容から、パウロがキリスト教会の在り方を伝えようとして書いたと言われています。今日の箇所を読んでみますと、挨拶にさえもそのパウロの姿勢が現れています。それでは1節づつ、パウロの考えを確認していきましょう。


1:15『~あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛している』

 パウロは、イエス様を信じるだけで良しとしませんでした。イエス様を信じる者たちを愛することも同じように必要な事として取り上げています。また、そのイエス様を信じる者が存在することを喜び、そして感謝しています。教会での信仰生活は、一人では成立ちにくいのです。たとえば、イエス様と私の関係だけでは神様を深く知ることは難しいことです。パウロはこの様に、教会があるからこそ、私たちが受けられる恵みを感じていたのです。 また、パウロは次のように書いています。

1:17『御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるように1:18心の目を開いてくださるように。~』

 この節を見ますと、私たちは神様をまだ深くは知っていないし、より深く神様を知るためには、「知恵と啓示」の霊が必要だとパウロが考えていることがわかります。その神様の下さる「知恵と啓示」の霊によってでなければ、私たちは心の目を開くことができないとパウロは言うのです。

パウロは、続けます。

1:18『~そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。』

 「知恵と啓示」を神様が下さることによってようやく、私たち信仰者は「神様の招きによってもたらされた希望」を悟り、そして「私たち自身が栄光に輝いている」ことを悟ることができます。つまり、私たちはまだまだ、「神様の与えられた希望や栄光の ほんの一部しか気づいていない」とパウロは指摘します。パウロの考えによると、私たちはまだ、神様の大きな働きについて悟るところまで至っていないという事です。だからこそ、神様はイエス様を私たちのところにお降しになって、神様の働きを担わせたのです。

 

『1:20 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、1:21 すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。』

 

 神様は、神様の大きな力をもって、イエス様をこの世に降されました。私たちを従わせるためにです。ですから神様は、イエス様をあらゆる地上にある力を超えた存在とされたと、パウロは考えたのです。

 

『1:22 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭(かしら)として教会にお与えになりました。1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。』

 

 キリストであるイエス様は頭(あたま)で、イエス様を含んだ体全体が教会です。ですから、教会はイエス様の意思に従って、神様の働きを担うというパウロの考えです。ところで、教会とは何を指すのでしょうか?一般論でいえば、教会とは、「共通の信仰によって形成された人々の集まり」のことです。また、教会とは、ギリシャ語の「エクレシア(ἐκκλησία:国のために召集された集会)」の訳語で、「人々の集い」の意味です。人々の集いですから、神様がいて自分がいて、その間をイエス様がとりなす構図だけでは、「教会」とは呼びません。そこに「信徒たちの集い」が無いのであれば、教会ではないのです。では、何人いれば教会なのかと言えば、2人以上です。その群れの規模が大きくても、小さくても、「信徒たちの集い」があれば、それは教会です。ですから、たまたま出会った信徒同士が祈りあうとか、交わりを持つのも、広い意味では教会と言えます。一般的には、毎週の主日礼拝を複数の信徒および参加者で守っていれば、教会と認められると思います。ですから、礼拝堂がなくて土曜日や日曜日に場所を借りて礼拝する集会でも、教会と言えます。そういう意味では、無教会派の集会も教会の一つのありかただと言えると思います。

 それから、「共通の信仰」については、バプテスト教会であればバプテストの信仰を指しますし、他のキリスト教派の集会のときはその教派の信仰、そして超教派の集会の場合は、「イエス様を信じる信仰」となります。

 ここでは、バプテストの信仰について、少し触れたいと思います。2年前に経堂バプテスト教会の信仰告白を教会規則と一緒にお配りしました。10項目ありますが、つぎの2項目が、バプテストの信仰の特徴です。

6.教会 キリストの教会は、神のめぐみによって召された福音を信じ、信仰告白をなしてバプテスマ(注:水に全身を浸す洗礼)を受けた信徒の集まりであることを信じます。

7.礼典 バプテスマと主の晩餐を、主イエス・キリストが定めたもうた礼典と信じます。

 キリスト教のほとんどの教派では、信仰告白は作っていません。なぜかと言いますと、使徒信条と呼ばれる伝統的に各教派で定められてきた文書があるからです。バプテストでは、各教会が独立した「個教会主義」をとっていますので、各教会毎に信仰告白や教会規則を作るのが特徴です。とは言いながら、バプテストの信仰告白も、だいたいが「ニカイヤ信条」などの伝統的な使徒信条を参考にしていますので、バプテストと他の宗派では、大きな違いはありません。特に、イエス様への信仰そのものの違いはなく、「こだわり」や伝統・文化の違いがあると言った方がよいでしょう。すべてのキリスト教会は、イエス様を頭として、イエス様の体となろうとしているわけですから、ほかの宗派の人々と礼拝を守り、交わりを持つことも可能なわけです。多様性が大事なこの時代ですから、お互いに違いを認め合いながら、世界中がイエス様によって一つになる事を祈っていけることは、大変意義のあることだと言えます。

 

 さて、バプテストは各教会が個教会主義をとると言いました。個教会主義と言うのは、教会版の個人主義ですね。決して、孤立したいと言うものではなくて、一つ一つの教会がそれぞれ自立すると言う事です。ですから、バプテストの教会は、どこの教会に行っても、同じではありません。礼拝のプログラムも違えば、聖書、讃美歌も違ったりします。そして、礼典の持ち方も各教会の判断で決められます。よく話題に上るのは主の晩餐式です。他教派の人にパンとぶどう酒を配るか?と言う事と、未信者にもパンとぶどう酒を配るか?と言う事を、それぞれの教会が決めています。このようなことは、どちらが正しいかとか、優れているかとかと比較するような事ではありません。それぞれの教会が決めたことだから、その選びが尊重されるのです。もちろん、全員一致で決めるのが望ましいのですし、いろいろな意見がある中、イエス様の体である教会が、一つの結論を導き出すそのプロセスが大切です。そのためには、少数意見に配慮しながらしっかり話し合うことです。それから、決めたからには皆がその結論を尊重することです。しっかり、話し合うことには相当な我慢が必要かもしれませんから、話し合いが深まる前に「多数決で決めたほうが良い」と思うかもしれません。しかし、目指すことは「教会が、キリストを頭とした一つの体になる」事です。話し合うことに始まって、受け入れあうことを願う事で教会は一体となっていくのです。

 ところでもし、話し合いが不十分なときに、その出した結論がよい結果に結びつかなかったら、皆さんはどう思うのでしょうか?今更のように「言っても無駄だから、何も言わなかったんだ」とか、「だから、私は反対したんだ」と言ってしまうようでは、教会は一体にならないでしょう。ですから、そのような声が出ることがないように、もっと話し合いが必要だったと考えてください。そして、出した結論に対して、賛成した人にも反対した人にも、そして何も言わなかった人にも責任があることを忘れてはなりません。教会は、イエス様がいてこそ一体になるのです。イエス様に祈って、そして信徒同士の話し合いを深める時、教会はイエス様によって一つにされていきます。私たちは、それぞれの経験や知恵を頼りに、教会を一つにしようと努力をしていますが、その努力には限界があります。イエス様に祈ってその足りない部分を補っていただくことで、教会は一体になっていき、そして神様の愛に満たされていくのです。

 

 さて、イエス様が教会の頭(あたま)です。そうすると私たちは、頭を除いたこの教会の一部分という事になります。ですから、もともと自分だけで完結する働きは、多くはないのです。ほとんどの働きは、頭との連携や体のほかの部分との連携が必要です。そして、その連携によって私たちの信仰は、成長するのです。イエス様を信じる兄弟姉妹の働きと証によって、私たちの信仰はとても励まされます。そして、その背後にいるイエス様に感謝の祈りを捧げることができます。逆に、だれかの言動に悩んだり、理解できないとき、どうしたらよいのかイエス様に祈って聞くことができます。このように、相手がいることで、相手の言動を通してイエス様の真実を少しでも知る事ができますし、イエス様を通して相手を見る事ができるのです。ですから、複数の兄弟姉妹との交わりは、イエス様をより深く知る機会となります。そしてイエス様に祈ることによって、相手を見て、理解し、受け入れることにつながります。だから、教会には、自分とイエス様だけではなく、共に働く兄弟姉妹が必要なのです。そして、大きな声で言いたいことは、私たちは兄弟姉妹に対して「とりなしの祈り」をすることができることです。とりなしの祈りは、教会が一つになっていくためには、大事な働きとなります。私が相手を祈っているように、相手も私のことを祈っているからです。祈って、そして祈られているこの関係があるだけで、お互いに理解し、話し合おうとする関係が出来上がっています。ましてや、イエス様はそれぞれの祈りを聞かれているのです。かならず、とりなした祈りはかなえられます。祈った言葉通りではなくとも、良い道筋が供えられるのです。

 先週は、定期総会がありました。定期総会は、バプテストの良い伝統である民主的な教会運営を目で見る行事だと言えます。総会でとられる議決方法は、多数決でありますが、少数意見をできるだけくみ取りながら、教会の一致を図っていく必要があります。もともと、数の力だけで物事を決めるのではなく、すべての人が受け入れられる様に話し合うのが、民主主義です。ましてや、ここは教会です。すべての兄弟姉妹が祈りあいながら、イエス様を中心に教会を一体に作り上げてきているのです。少数の意見を言う人も教会のかけがえのないその体の一部なのです。だから教会では、イエス様に祈って聞くことと、すべての人が自身の考えを言い、そしてほかの人の声に聞くことが必要なのです。そうすることで、教会はキリストの体となっていきます。ここに集う人みんなで、キリストの体を作りつつ、教会を支えてまいりましょう。