士師13:2-14

すべてを委ねる

2023年 12 17日 主日礼拝

すべてを委ねる

 聖書 士師記13:2-14

アドベント3週となりました。今日は羊飼いの蝋燭に火が灯りました。来週は24日はクリスマス礼拝で、ベツレヘムの蝋燭と真ん中のイエス・キリストの蝋燭を灯します。キャンドルサービスについては、例年通り24日(日)の午後7時から守ります。救い主であるイエス様の誕生を待ち望むアドベントの最期の1週間。神様の愛に感謝して、御子の生まれる喜びを周りの人々に伝えていきましょう。

 さて、今日の聖書は、士師サムソンが生まれる時の物語からです。イスラエルの12士族の一つである、ヤコブの子ダンの一族にマノアという男がいました。ダンの一族が住んでいた場所は、ちょうど今のパレスチナのガザ地区の北側と隣接しています。ガザ地区の北東の端ぐらいが、ツォルアであります。当時イスラエルの民は、神様によってペリシテ人の手に渡されていました。ペリシテの人々の支配下にイスラエルはあったのです。また、この当時イスラエルは国ではありません。ペリシテ人の国に、住み着いている異民族といったところです。このころ、神様は士師を立てて、イスラエルの民を導いていました。そして、国王や軍隊はなかったのです。ですから、もし、ペリシテの人々と争えば、負けてしまうのは明らかです。さらに、ペリシテは鉄を作る技術を隠したので、イスラエルはまともな武器を持っていません。士師の時代の後、サウル王の時代でもそれは続いたほどです。こんな記事があります。

サム下『13:19 さて、イスラエルにはどこにも鍛冶屋がいなかった。ヘブライ人に剣や槍を作らせてはいけないとペリシテ人が考えたからである。13:20 それで、イスラエルの人が鋤や鍬や斧や鎌を研いでもらうためには、ペリシテ人のところへ下るほかなかった。13:21 鋤や鍬や三つまたの矛や斧の研ぎ料、突き棒の修理料は一ピムであった。13:22 こういうわけで、戦いの日にも、サウルとヨナタンの指揮下の兵士はだれも剣や槍を手にしていなかった。持っているのはサウルとその子ヨナタンだけであった。』

 当時、経済的にもイスラエルはペリシテに支配されていたのです。

 さて、マノアの妻は不妊の女でした。その女の所に主の御使いが現れます。

そのとき、「あなたは身ごもって男の子を産む。」との告知を受けます。その、生まれる男の子がサムソンなわけです。サムソンは、ナジル人でありますが、主の御使いの言葉によると、母親の胎内にいるときからすでにナジル人であったことになります。ナジル人とは、自ら志願して、あるいは神様の任命を受けて、特別な誓約をした人のことです。民数記6章に詳しくありますが、簡単に言うと、その誓約は3つあります。

・葡萄を口にすることを禁止。葡萄酒、葡萄酢(ワイン・ビネガー)、生のまま、干したもの(レーズン)、皮など。

・髪を切ることの禁止。

・死者に近づくことの禁止。

そして、ナジル人となると、その期間だけ祭司のような務めを負いました。ですから、期限付きの献身であるわけです。その献身によって、神様のパワーを頂いていたと思われる人物は、何人かいます。しかし、明らかにナジル人と聖書に書かれているのは、サムソンだけです。サムソンは、神様の任命を受けて、その生涯が始まる前から、ナジル人でした。そして生涯をナジル人として過ごしました。ですから、マノアの妻にも、サムソンが生まれるまでナジル人のように生活することを求めたのです。そして、神様はこのサムソンに、イスラエルの士師として民を救う役割を与えたのでした。


 さて、このような神様から子を授かるとの告知は、他にもあります。アブラハムの妻サラに子供が出来るとの予告(創世記17:19)やイザヤの預言ですね。

イザヤ『7:14 それゆえ、わたしの主が御自ら/あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み/その名をインマヌエルと呼ぶ。』


 おとめからのイエス様の誕生は、不妊の女が身ごもる事以上に、奇跡的であります。やはり、神様しか起こしえない事なのだと思います。しかし、科学的にはどのように受け止めれば良いのでしょうか? 単為生殖という言葉があります。実際に、雌だけで子を産む事例が知られていまして、それを単為生殖と呼びます。蜂やアブラムシがそうですね。爬虫類や魚、そして七面鳥は受精が無くても子供が生まれるそうです。ただ、哺乳類での実例は見つかっていません。それらは事実でありながら、私たちの持っている常識と合わないかもしれません。なぜなら、私たちが、詳しく知らないことだからです。そういう意味で、常識であっても少しは疑ってみなければなりません。「おとめが身ごもって、男の子を生み」ということはあり得ない。それは常識と言えるのでしょうか?。そもそも私たちは、生命について無知なはずであります。しかし、無知であるなりに経験を積めば学習できます。何度か繰り返し目撃すれば、学習する機会があるわけです。ですから、例えば数千年に一度起こるようなことについては、学習する機会がまずありません。と言うことは、「見たことが無いだけ」にすぎないのです。つまり、「おとめが身ごもって、男の子を生み」という聖書の記事を、否定することは困難なのです。そして逆に、肯定する科学的根拠もありません。しかし、科学的に説明ができないからこそ、信じるかどうかが問われるのであります。もし、どちらかが立証できてしまったならば、信じるかどうかの意味はなく、ただの事実となってしまいます。科学的に否定も肯定もできないからこそ、信じるか?信じないか?の世界が存在するわけです。全世界を支配する全能の神様は、私たちの知らない事も御存知であり、何でもできる。そのことを、私たちは信じています。

 17世紀の哲学者パスカルの言葉を編集した瞑想録「パンセ」の中に「神を感じるのは心であって、理性ではない。信仰とはこのようなものなのである。」とあります。たしかに、神様の存在を証明できなくても、神様を信じて神様を感じるならば、私たちは十分に救いと恵みに与ることが出来ます。ですから、私たちは聖書に書いてあることを、科学的な目だけではなく、神様のみ旨と、その記事を書いた人の信仰とを読み取って行きたいですね。

 さて、今日の聖書では、主の御使いの言葉があります。主の御使いについては、原文を読むとヤハウェの御使い(メッセンジャー)とあります。そしてマノアの妻は、神(エロヒーム)の人と呼んでいますから、主の御使いだとは思わなかったようです。神の人とは、旧約聖書ではほぼ預言者であります。ですから、彼女は主の御使いを預言者だと思ったのでしょう。主の御使いの言葉は、マノアの妻の信仰によって、夫に伝えられました。預言者と思っていた方の言葉を信じたからです。マノアの妻は、夫に告げました。

『神の人がわたしのところにおいでになりました。姿は神の御使いのようで、非常に恐ろしく、どこからおいでになったのかと尋ねることもできず、その方も名前を明かされませんでした。13:7 ただその方は、わたしが身ごもって男の子を産むことになっており、その子は胎内にいるときから死ぬ日までナジル人として神にささげられているので、わたしにぶどう酒や強い飲み物を飲まず、汚れた物も一切食べないようにとおっしゃいました』

正直、わけが分からなかったのでしょう。それでも、神の人の言葉が、成就する。そう信じたと思います。そのために、彼女自身がナジル人の誓約を守らなければならないことも受け入れました。しかし、恐ろしくそして不安なので夫に相談をします。しかし、その後の部分は心にしまいました。彼女は、この言葉を夫に伝えていませんでした。

『彼は、ペリシテ人の手からイスラエルを解き放つ救いの先駆者となろう。』

たぶん、自分の息子が士師としてイスラエルを治めるとの予告を心にしまったのです。そして、神の人の言葉が成就するためには、夫マノアの協力が必要です。マノアの妻は、イスラエルの救われることを信じ、今から起こることを全て受け入れる決心をしたのだと思います。

 その神の人の言葉を妻から聞いたマノアは、すぐさま神様に祈りました。

『わたしの主よ。お願いいたします。お遣わしになった神の人をもう一度わたしたちのところに来させ、生まれて来る子をどうすればよいのか教えてください。』


 これを聞き入れた神様は、主の御使いを再び送り出します。

マノアの妻の前に現れたのです。

『 妻は急いで夫に知らせようとして走り、「この間わたしのところにおいでになった方が、またお見えになっています」と言った。』

 妻は、今度は夫を呼びました。夫と一緒に確認したかったからです。また、マノア自身が、「わたしたちにどうすればよいのか教えてください」と祈っていたからです。そしてマノアは主の御使いに尋ねます。

『「あなたのお言葉のとおりになるのでしたら、その子のためになすべき決まりとは何でしょうか」と』(・・・後半の部分を直訳してみますと、「その子の守るべき規則は何でしょうか」となります。)つまり、「夫婦がこの子に何を教えたらよいか?」について尋ねています。

マノアは、不妊の妻に子供が生まれる事と、彼女が子を産むまでナジル人の誓約を守らなければならない事までは、妻から聞いています。マノアが尋ねたのはその子が生まれた後のことでした。つまりマノアは、「生まれてくる息子サムソンに神様から特別な御用が与えられる」と理解して、その子をどのように育てたらよいのか?との質問だったわけです。

 ところがです。主の御使いが答えたのは、マノアの妻に対する禁止事項だけでした。彼女は、あらゆる葡萄や、汚れたものを口にすることの禁止されました。そして、男の子の髪を切ることの禁止だけです。肝心の答えは返ってきません。納得のいかないマノアは主の御使いを神の人(預言者)だと思って、もてなそうとします。多分、いろいろ聞き出したかったのだと思われますが、かないませんでした。その代わりに、主に捧げものをしました。そして祭壇の炎と共にその方が空に上がります。それで、その方は主の御使いだったことに気がつくわけです。マノア夫妻は、こうして神様に直接会って、神様の命令を受けました。そして、この夫妻は、息子サムソンを神様に委ねたわけです。自分たちではなく、神様がその子を育てるからです。


 アドベントですので、受胎告知のお話でした。神様がその子を用いるとの予告を受け入れたマノアですが、神様の命令によってその子のすべてを神様に委ねました。同じように受胎告知を受けたマリアは、自分に起こるだろう不利益なことも含めて、全てを神様に委ねたのです。この信仰を、私たちは語り継がなければなりません。クリスマスは、救い主イエス・キリストが生まれた喜びの物語でありますが、同時に神様への信仰によって、全てを神様に委ねた人々の信仰の物語でもあります。

 今からの一週間、どうかそのことを憶えて、神様の導きに感謝を捧げていきましょう。