コリントの信徒への手紙一9:19-27

朽ちない冠


1.多くの人を得るために

 イエス様は、復活後、弟子たちに大宣教命令と呼ばれるこの命令を下しました。

マタイ『28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」』

パウロが言う「できるだけ多くの人を得るためです」とは、前提にこのイエス様の命令があるわけです。パウロは、そのときガリラヤの山にいませんから、この命令を直接受けたわけではありません。しかし、イエス様を信じてクリスチャンになった者全てが、この命令を受けていると、パウロは受け止めています。

 イエス様の命令は、宣教です。私たちが信仰生活を送るうえで、教会は大事な存在です。礼拝を守り、祈り合い、そして聖書を学び、信徒同士の交わりをすることを通して、信徒自身の平安が与えられます。しかし、本来教会は、宣教のためにあります。一人でも多くの人に「バプテスマを授ける」ことが教会の役割です。それはキリストの大宣教命令にお応えするためであります。 

2.すべての人の奴隷

 パウロは言います。

『9:19 わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。』

パウロは偉大な宣教者でありました。それなのに、できるだけ多くの人にイエス・キリストを伝えるために、「すべての人の奴隷」になったのです。これは、上から教えを押し付けるようなことにならないように、相手への配慮からはいったのだと思われます。奴隷であれば、自分から主人に話しかけることは許されません。まず主人の言うことを聞くことから始めて、何か問われたらようやく主人に話すことが出来ます。パウロが、奴隷になったと言うのは、自分が教えたいことを教える自由は放棄して、相手が話したい事、知りたいことを聞き出して、そこから宣教を始めたからだと思われます。

 一般的には、相手に迎合することは楽なことです。しかし、そこにはキリスト教を宣教する目的がありますから、異教徒の相手や律法に支配されている人を受け入れつつ、信仰に導くのはむしろ困難な道です。パウロは、いまだに律法に支配されているユダヤ人にも、律法を持たない人にも、その相手にふさわしく宣教すると言います。しかし、教会が多様性を持つことは、難しいのです。ある一定の範囲の人々の中の方が話が通じやすく、福音を伝えやすいと言えます。パウロは、どのような人にでも自分は宣教をしたい、そう願いました。ですからパウロの開拓した教会には、ユダヤ人も異邦人もいました。社会的な身分も、王族から奴隷までいたのです。

3.朽ちない冠を得るために

『9:24 あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。9:25 競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。』 

 コリントはオリンピック発祥の地であるギリシャにあり、古代オリンピック競技はコリントの人々に親しまれていました。ですから、パウロも比喩として走ることを用いたのでしょう。

 賞を受けるのは一人だけだとパウロは言います。賞を受けるように信仰の道を走りなさいとパウロは語っています。古代オリンピックの競技場を走る選手のように走りなさいということです。その信仰の走りは、オリンピックと異なって、救われるのはすべての人になります。求められているのは、一番になることではなく、それぞれが、最大の力を発揮する事であります。

 古代オリンピック競技に限らず、なにごとかをやりとげようとしたら、誰でもその目的に向かって努力をします。天才と言われるような人であっても力を発揮しようと思ったら、やはり、努力をするのです。そして、「競技をする人は皆、すべてに節制します」とパウロは語っています。この言葉は、この世の様々な分野でも、あてはまりますし、信仰の道もまた同様なのです。

 しかし、節制し努力したからと言って、救われたり、天国に行けるわけではありません。そこには、福音がないからです。私たちは福音によって、つまりイエス・キリストの十字架によってすでに救われています。救われた者は、イエス・キリストの弟子として歩みます。弟子ですから、キリストに倣い、キリストの後をついていくのです。イエス様ご自身が、神様でありながらへりくだり、人々に仕えて歩みました。それが第一です。そしてその歩みのために、節制をしました。ですから私たちも節制をするのです。それは、キリストの十字架を伝えるためなのです。

 信仰における節制とは、単に禁欲的に生きるとか、他のことは求めずに宣教に励むということではありません。一番大事なことは、神様に従うことに集中することです。私たちの日々にはさまざまなことがあります。やるべきことが山ほどあります。その中で神様の事を一番大事なこととするのが節制です。 一番大事なことに目を向けるとき、不思議なことに私たちはいっそう自由になります。節制というと禁欲的な苦しいことのようですが、信仰における節制にはむしろ喜びと自由があります。そしてその喜びと自由の先に、この世では決して得られない朽ちない冠が与えられます。古代オリンピックでは勝利者に月桂冠が与えられました。月桂樹で編まれた月桂冠は神聖なものと考えられていました。賞金を得る競技より月桂冠を得る競技の方が神聖で格が上とされていました。しかしその月桂冠も朽ちるものです。この世のどのような誉れもやがて朽ちます。しかし神様からいただく賞は、朽ちることはありません。ですから、朽ちない冠を目指して信仰を走りぬきましょう。