イザヤ書3:12-15

行いの実

 (参考)イザヤ『3:4 わたしは若者を支配者にした。気ままな者が国を治めるようになる。』

    コヘレト『10:16 いかに不幸なことか/王が召し使いのようで/役人らが朝から食い散らしている国よ。』


1.無政府状態

   イザヤ3:4で登場する3歳の子であるアハズ王による脅威はすでに広がってます。無政府の状態は、幼児君主であるアハズの性格によります。コヘレト10:16の 国の混乱に対して預言者は、「わたしの民」という繰り返しの叫び声を発しています。支配者たちは人々を抑圧しました。支配者は、子供と女性が担いました。(ハーレムの主である母と、周辺の女性は不当な影響力を獲得します。)

 「お前たちを導く者は、迷わせる者で/行くべき道を乱す。」

 あなたの指導者は幼なく、またその幼君を補佐する者もやりたい放題でした。これら無能な指導者でありますから、国は迷い、乱れるばかりです。

2.主は立ち上がる

  主は人々を救うために身を置き、彼の民を裁くために立っています。彼自身の義、または彼を拒絶したユダヤ人に対する彼の息子(イエス様)の大義、そして人々を彼に対する悪い意見に導いた律法学者とファリサイ派の人々を裁くために立っています。主は自分の場所から立ち上がり、主の義を守るために立ち上がり、邪悪で恩知らずな人々に復讐します。それはユダヤ人の人々、イスラエルの部族に対する神様の裁きに至るのです。

3.守るべき人々への怒り

 すぐに召喚されたのは、国民の福祉を担当する当事者である「長老と王子」です。

『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし』

主の憤慨と戒めはこの時点で始まります。ぶどう園のイメージは、イザヤ書5:1-7で説明されています。ここでの告発のポイントは、野獣の侵入からブドウ園(イスラエルの民)を守るべきだった人々が彼ら自身がそれをむさぼり食ったということです。

イザヤ『5:1 わたしは歌おう、わたしの愛する者のために/そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘に/ぶどう畑を持っていた。5:2 よく耕して石を除き、良いぶどうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り/良いぶどうが実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。5:3 さあ、エルサレムに住む人、ユダの人よ/わたしとわたしのぶどう畑の間を裁いてみよ。5:4 わたしがぶどう畑のためになすべきことで/何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに/なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。5:5 さあ、お前たちに告げよう/わたしがこのぶどう畑をどうするか。囲いを取り払い、焼かれるにまかせ/石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ5:6 わたしはこれを見捨てる。枝は刈り込まれず/耕されることもなく/茨やおどろが生い茂るであろう。雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。5:7 イスラエルの家は万軍の主のぶどう畑/主が楽しんで植えられたのはユダの人々。主は裁き(ミシュパト)を待っておられたのに/見よ、流血(ミスパハ)。正義(ツェダカ)を待っておられたのに/見よ、叫喚(ツェアカ)。』


4.貧しいものの顔を臼で・・・

「何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き/貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか」

 どちらの暴力も、古い奴隷保有時代の奴隷の残酷な扱いによって説明されるかもしれません。厳しい抑圧の一般的な暴力であります。棒で打ち叩き、ひれ伏した体を踏みにじって地面に顔をおしつけることも、軽蔑的であります。・・・しかし、神様は救いの手を準備されます。

①「貧しい人々に対する人間の残酷さ」

 東部の土地の貧しい人々は、国の災害、疫病、飢饉、または戦争の時代に最初に苦しむ人です。無政府状態によって引き起こされる利己主義は、貧しい人々への虐待に見られます。貧しい人々の主人と金持ちは、頻繁に貧しい人を押しつぶします。神様は、この虐げられた貧しい人々を救う決心をされるのです。

②「貧しい人々に対する神様の世話」

 人々の扱いを尊重する神様は、具体的な方法を計画しました。人々を養う神様ご自身による驚くべき方法は、神様が地上に降した独り子イエス様と人々との関係に見ることができます。

 イエス様の世話の特徴は、例えばこの言葉に見られます。

 ルカ「6:20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。」

(マタイでは、心の貧しい人々となっているので、ルカの方を選びました)

③ 「人々が神のようになるとき」

 イエス様がこの地上にやってきて、貧しいものにも等しく、かかわりました。癒しを施し、いっしょに食事をしたのです。イエス様との係わりを持った貧しい人々は、キリストが感じたように感じ、キリストが行動するように行動しました。ですから、虐げられた者や、困っている人や困っている人に関心を抱かずにはいられません。その姿を目撃した善良な人々は、イエス様を信じるようになります。こうして、神様の救いの計画が進められていくのです。