ローマ5:1-11

信仰によって義とされる

 「信仰義認」と呼ばれる、パウロの教えを学びます。パウロ書簡の成立は、パウロの生きているときですから、AD63,4年と思われます。もっとも古い福音書と言われているマルコによる福音書がAD70年代に成立したと言われていますから、どの福音書よりも古いわけです。面白いことに、福音書には「信仰によって義とされる」に似た表現は全くありません。しかし、「あなたの信仰があなたを救った」と言った記事はあります。福音書記者は、パウロの神学を読んで知っていたと思われますが、福音書にはイエス様の教えを記憶(録)から忠実に書き残されたのだと思われます。

 

1.神との間の平和 

 私たちは、律法を守ったから義とされたわけではありません。また、割礼などのイスラエルの宗教的慣習を守っているから義とされたわけでもありません。真に私たちは、私たちが与えられたイエス様への信仰によって義とされるのです。義とされるとは、罪から解放されて神のもとに義(ただ)しいと認められることです。そして、このことはイエス様が仲介してこそ成立します。神様と私たちの間には、面と向かい合うことができない壁があります。私たちは、神様の前に罪を犯すことを止められませんし、神様は私たちの罪を裁かれようとするならば、何時までも和解できないからです。そこにイエス様が、神様と私たちの間の仲裁者として立つことで、私たちの罪はイエス様の十字架の恵みによって許されるようになったのです。こうして、私たちはイエス様を仲裁者として、神様との間の平和を得ることができるようになったのです。

 

2.キリストの恵み

 このイエス様(救い主)の恵みのおかげで、私たちは信仰を持つための導きを得て、神様の栄光にあずかる希望、天の国に入る希望を持ちました。私たちは、イエス様によって天の国に招かれていることを誇りにしています。また、天の国に招かれるためには、良いことばかり起こるわけではありません。道半ばには、苦難も待っていますが、私たちはその苦難を受けることをも、誇りに思っています。わたしたちは知っているのです。苦難は耐え忍ぶことを導き出します。また、耐え忍ぶことを乗り越えていく過程において、より優れた体力と気力と知恵が与えられます。こうして、私たちは、イエス様によって与えられた苦難によって成長させられ、そして「次の苦難をも乗り越えられる」との希望を持ち、そして、また乗り越える過程で成長させられるのです。そういう意味で、イエス様の苦難は、希望をもたらすことであり、私たちはそ苦難を受けることを誇りとしているのです。

 また、この希望は私たちを裏切ることはないのです。なぜならば、神様は私たちに必ず「神様の愛」を聖霊を通して届けてくれるからです。

 

3.神は愛を示された

イエス様は、私たちの信仰がまだ弱かったころ、神様のご計画に従って、十字架にかかって死んでくださいました。私たちの不信仰による罪を一身に受け、そして、私たちの罪を贖いました。私たちはそのことを知り、そして信じることによって、今は信仰が強められています。

 正しい人とは、義とされた人のことです。したがって、正しい人とは、信仰が強くて神様に背くことのない人を指します。パウロが言うには、「信仰の強い人のために死ぬ人」はいなくても、「善い人のために命を惜しまない」人はいるかもしれない と言っています。それが、イエス様は「信仰の強い人のためにではなくて、信仰の弱い人のために」、十字架にかかられたのです。ありえないくらいの大きな犠牲を払って、「信仰の弱い人のために」十字架にかかったイエス様。パウロは、そこに神様の私たちへの一方的な愛を見出しています。神様は、善い人を愛しただけではありません。善い人でなくても私たちを愛してくださいます。そして、信仰が強い人にも、そして信仰の弱い人にも、罪からの解放のために、神様は独り子を犠牲にされたのです。

 

4.キリストを通しての和解

 私たちは、イエス様の十字架で流した血によって、罪がゆるされ、信仰をもち、イエス様の仲介があって、神様からも義とされました。ですから、イエス様は、神様からの怒りから私たちを救おうとされました。それは、私たちが信仰をもって、そして祈るようになる前からです。また、こうして私たちと神様の間をイエス様は仲介するために、そして私たちが罪から救われるためにこの世に降ってこられたのです。

 パウロは、キリスト教が始まったころ、敵でした。パウロは、キリスト教徒を迫害することで、イエス様を迫害していました。イエス様は、そういう敵であるパウロをさえも「神様との和解を仲介」してくださったのです。そして、今はパウロは敵ではありません。イエス様の仲介によって神様と和解が成立したのです。パウロは、それほどまでにも愛されていることを知って、パウロ自身が救われていることに確信を持っています。敵対しているときでさえ、愛されていたのです。いま、和解していますから、敵対しているとき以上に愛されていることを実感しているわけです。

 敵をも、イエス様を通して和解に導く神の愛を、パウロは誇っているのです。