ローマ1:1-7

 イエスの僕

2022年 12月 18日 主日礼拝

イエスの僕

聖書 ローマの信徒への手紙 1:1-7           

  今日はアドベント第四週です。アドベントキャンドルも、今日からベツレヘムの蝋燭が加わりました。そして土曜日の夕方、ユダヤの25日が始まる夕方に真ん中のイエスキリストの蝋燭に火が灯ります。


 ローマの信徒への手紙は紀元56~58年頃、パウロがコリントで書いたと言われています。そのころのパウロの伝道旅行によって、幾つかの異邦人向けの教会が育っていました。異邦人伝道のための使徒としての自覚を持っていたパウロには、次の伝道についての夢がありました。それは世界の果てであるイスパニア(今のスペイン:当時、世界の果てと考えられていた)への伝道であります。その前段階として、パウロはローマ訪問を真剣に考えていました。そこでパウロは、まだ一度も訪れたことのないローマの教会にあてて手紙を書いて、パウロの熱意と、ローマの信徒たちへの敬愛の気持ちを伝えます。

 パウロの書いた手紙は、どの手紙も同じような形式で始まります。最初にパウロの自己紹介、次に受取人への敬意が示され、そして挨拶の言葉を経て本題へと入ります。パウロは、この自己紹介にさえも、熱い言葉を使って伝道への熱意を伝えています。そういうわけで、

「キリスト(救い主)はイエス様のことです。私はそのイエス様の僕で、神の福音を宣べ伝えるために選ばれ、召されて使徒となりました。」

このようにパウロは告白するのであります。

 注目したいのは、(棒線で囲まれた部分)1:2から1:6の箇所にある、福音についての注釈です。当時はまだ、福音と言う言葉が、キリスト教の中で一般的な言葉ではなかったので、注釈をつける必要があったのだと思われます。福音【εὐαγγέλιον、「良い(eu- エウ、"good")知らせ(-angelion アンゲリオン、"message")】とは、そのままの意味では「良い知らせ」ですから。パウロが福音と呼ぶ「良い知らせ」とは何であるかを挨拶文の大半を使って説明する必要があったようです。

パウロの 福音の説明は2つありました。

一つ目は、「福音は旧約聖書で神様によって約束され、預言者が語った神の御子に関する事です。」ということ。二つ目が「神の御子は、ダビデの子孫から生まれました。そして、聖霊によって死からよみがえった時、神の子であることが示されました。この方が私たちの主であるイエス・キリストです。」と言うことです。 パウロはこれに加えて、「私たちは、イエス様によって、ローマの人々を含めたすべての異邦人を信仰に導く使徒とされました。」と自身の召命について説明します。


 この熱のこもった自己紹介の後、パウロはこれからの出会いを期待して「私たちの父である神と主イエス・キリストから恵みと平和が、あなたがたにあるように」とローマの人々のために祝福を祈ります。


 パウロは、「神様が、預言者たちを通して約束してくださったことが、救い主によって成就しました。」と教えました。ですから、短い挨拶の中でも、「預言者の言葉は、神様の約束であった」とパウロは信仰をもって告白しています。預言者に書かれている事は神様の御言葉であり、神様の約束なのです。また、パウロは、「古い契約と新しい契約がつながるように、救い主は旧約聖書のすべての約束を成就させた」と告白しました。なぜなら、旧約聖書で約束されていた福音とは、新約聖書で約束された福音とは、どちらもイエス様によってもたらされているただ一つの福音だからです。


 パウロが主張するように、創世記から黙示録までの聖書の一貫性は、理解していただかなければなりません。今日、旧約聖書と新約聖書は二つに分かれていて、新約聖書だけの聖書もありますが、新約聖書だけではイエス様のことが十分に語れないのです。パウロが、すべての人々に伝えたかったことは、「モーセもイエス様も同じ福音を教えた」ということです。パウロの時代のユダヤ人の多くは、イエス様を受け入れずに信じませんでした。それは、モーセが教えた旧約聖書の福音とイエス様の教えた新約聖書の福音が異なるからではありません。彼らユダヤ人は、モーセが教えた旧約聖書、つまり「モーセを介して結ばれた神様との契約」にそもそも従っていなかったからであります。古い契約と新しい契約は一連のものであります。ですから、新しい契約を受け入れないユダヤ人は、もともと古い契約も受け入れていなかったのであります。


 神様が約束した福音について、旧約聖書の中にはたくさんの教えがあります。パウロは、この手紙の中でそのことを語っています。アブラハムの契約は福音の約束ですし、モーセやダビデに与えられた契約も福音の約束です。

 イエス様が生まれる千年も前に、ダビデは、主イエス・キリストの着ていた服が籤びきにされること(詩篇22篇)を、700年前にイザヤが『彼は軽蔑され、人々に見捨てられ』(イザヤ53章)とイエス様の十字架を預言しています。

 そして、ダニエルは、キリストが生まれる500年以上も前にキリストが何時誕生するかを預言(ダニエル書6:28)しました。ほかに、皆さんがよく知っていることは、ベツレヘムに救い主が生まれる(ミカ5:1)ことや、救い主がユダ族である(創世記49:8)ことです。旧約聖書の中には救い主についての預言が、数百にも及ぶと言われています。その全部が主イエス・キリストによって成就されたと知る時に、この福音は神様ご自身が下さったことを疑うことはできません。神様の導きのすばらしさ、その導きの偉大さをそこに見ることができます。気の遠くなるほどの長い期間、神様は旧約聖書の御言葉を通して私たちにその福音を約束しています。そして、イエス様によって救い主を下さる約束が成就したのです。そして、その福音の中心にこそ、主イエス・キリストがおられるのです。


 これらの約束は「イエス様に関する事」です。その約束のすべてはすなわち主イエス・キリストのこと。それが福音の中心をなします。キリスト教は、他の宗教と比べて、人格的な宗教であります。私たちキリスト者は、イエス様の教えやパウロの教理だけに従うのではなく、イエス様の人格と言いますか、私たちを愛してくださる真の神様に従うのです。一般的に宗教は、神聖なる礼拝対象と、教義と儀式が中心となります。神聖なるものを礼拝することが目的だったり、人々が豊かになるのが目的だったり、祟り神を鎮めるのが目的だったりと言うことです。それに対して、キリスト教では、神様が私たちの罪を赦すために、人となられこの地上に来られたことを中心にしています。このイエス様の生涯および復活を宣べ伝える福音は、聖書独自のものであります。イエス様のみ言葉と生き方の全てが福音でありますし、イエス様は神様ですから、私たちは人格的な神様であるイエス様を信じて礼拝し、そしてイエス様に見習おうとしているのです。また、イエス様は「救いへの唯一の道」(ヨハネ14:6)でもあります。このように、キリスト教の福音の中心はイエス様ご自身なのです。


 イエス様は、受肉した神つまり、神様ご自身が人となってこの世に降ってきた方であります。言い方を変えると、神様であって人間でもあるという事になります。古代の神話の世界では、似たようなことが言い伝えられています。しばしば国の権力者は、神の子であると名乗りました。権力者の母が、神の子を生んだことにしてしまうのです。これは、権力者の半分が神で、半分が人だと言う詭弁でありまして、国を治める根拠とされました。しかし、その権力者は100%人間であって、神の要素は全くありません。一方で、主イエス・キリストは、完全に人間としてこの世に降りました。だから、私たちと同じ人間の本質を持っています。そして、100%人間として生まれたイエス様は、もともと100%神様なのです。ですから、イエス様は、神様の本質と人間の本質の両方を完全に持っておられる方です。それゆえに、イエス様は、神様と人間の間に立って和解の働きをすることのできる唯一のお方なのです。イエス様は、神様のすべての約束を完全に成就させました。それゆえ、福音は、主イエス・キリストそのものなのです。 


 私たちの信仰に基づいた生き方は、主イエス・キリストご自身に結びつくことが理想です。なぜなら、私たちの毎日の生活で福音を中心とするならば、それは主イエス・キリストを中心とする生活でなければならないからです。主イエス・キリストを中心とする生活とは、イエス様の僕であることを受け入れる生活であります。・・・さて、「受け入れる」と言う言葉の中に、私たちが主体ではない受け入れざるを得ない事実が隠されています。私たちは、どうしても自分でキリスト教を選んだと錯覚してしまいますが。本当は、生まれる前から、主イエス・キリストを信じる者として選ばれています。私たちは神様の不思議な導きの下にあります。そして、イエス様はご自身を仲介者として、すべての人がイエス様を受け入れることを待っておられるのです。キリスト教を迫害した最先鋒であった、あのサウロでさえも、キリスト者を迫害するために向かう道でイエス様に会い、イエス様を受け入れたのです。そして、新たにキリスト教の伝道者パウロとして立てられました。パウロが求めてそのようになったのではありません。神様が計画して、神様が導きました。神様の導きは、私たちにはとても予測できない不思議なものであります。私たちが知らないうちから、私たちがイエス様の僕になるよう、あらかじめ計画されていたのです・・・

 さて、主イエス・キリストの僕であることを受け入れる生活とは、どんな生活を皆さんはお考えになるでしょうか?自分の意思を捨てて、ただただイエス様の考えを忖度して、清く正しく生きようとすればよいのでしょうか? そもそも、人間ですから極めて自己中心な生き物であります。イエス様の奴隷だと思ってはいても、すぐにそんなことは忘れてしまいがちです。それでも何とか我慢して、イエス様の考えにあわせようと努力をする。・・・それでは、たぶん息が詰まるようなことになってしまいます。そこには、イエス様に出会った喜びが私たちには必要なのです。イエス様に導かれていることをまず第一に喜び、そして 今喜んでできる範囲で従おうとする。そうするならば、いつも喜びが勝り、心が暗くなることはあまりないでしょう。実際パウロは、「自分はキリストの奴隷である」と宣言する時に、誇りをもって宣言しています。イエス様の奴隷であることを喜んでいるのです。イエス様の奴隷として、「神様が自分を導く。そして、神様がすべてを決めてくださる。」との、奴隷としての正しい認識を受け入れて、その日の生活を主イエス・キリストにゆだねて生きる。そういう人は、イエス様の奴隷であることを喜び、誇りとすることが出来るのです。

 すべてのクリスチャンはパウロと同じように、イエス様への献身的な生活に召されています。召され方は様々です。そして、すべての人々はキリストの奴隷となって、その召されていることを喜ぶことが出来ます。

 さて、私たちは、今週土曜日にイヴ礼拝を持ちます。イエス様がこの世に降って来たその恵みを分かち合います。そういうお祝いの時に、主イエス・キリストの奴隷として召されている私たちが、その神様のご計画に感謝する機会が与えられています。イエスキリストの降誕は、神様の計画された私たちへの贖いと永遠の命のためであります。ですから、私たちが、イエス様の奴隷であることを喜んで受けいれ、そして今可能な範囲をイエス様にゆだねるならば、イエス様の恵みはより大きなものになります。残りの待降節の期間、どうか皆さん、このイエス様の恵みを憶えて、イエス様にゆだねて生きる その喜びがより大きく与えられるよう、イエス様に祈ってまいりましょう。