ヨハネ14:15-27

 イエス様の約束

2020年 5月 17日 主日礼拝

『イエス様の約束』

聖書 ヨハネによる福音書14:15-27

『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。』(ヨハネ14:15)

 今日の御言葉が語るイエス様の「おきて」とは何をさすのでしょうか?ヨハネによる福音書13章で、次のようにイエス様は語られました。

ヨハネによる福音書 『13:34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。』

 

これを見ると、新しい掟というのは「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということになります。

イエス様の新しい掟は、「イエス様のように互いに愛しなさい」という命令ですから、そのまま素直に、「はい、イエス様のようになりましょう」と、お薦めすることも、悪くはないと思います。ですが、不完全な人間である私たちのことですから、「イエスさまの様になりたいけれど、なれるわけがない」というあきらめが先に立つことでしょう。もちろん、イエス様がご命令されているので、その内容をもう少し知っておきたいですね。

 

イエス様は、「どうしたら掟を守れるようになるのか?」について、こう語っています。

『あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。』(ヨハネ14:15)

もうすこし、この言葉に込められたイエス様の意図を読み込んでいきましょう。

ギリシャ語から直訳すると、「あなた方が私を愛する(無条件の愛:アガペー)ならば、あなた方は、私の掟を守るでしょう。」となります。ですからこのみ言葉には、「弟子たちはまだ、イエス様を無条件にまで愛していないし、イエス様の掟を守れていない」現実を、読み取ることも出来ます。

 

イエス様の意図については、ギリシャ語の聖書でも、これ以上細かいことまで直接読み取ることはできません。それでも、想像力をもって、色々考える事はできます。こんな意図があったのでは?という推理を挙げてみます。

・「私を愛しなさい、そうすれば、私はあなたに掟を守る力を与えます。」 ちょっと書き加えると、意味が全く違ってきました。

「イエス様が私達を愛してくれるように、私達が互いに愛する」。その、たいへん難しいことが、「イエス様を愛する」ことだけで、「大丈夫なんだ。・・」あとは、イエス様に任せなさいと、語っているようにも想像できます。

もうひとつ、推理例を挙げてみると、

・「私を愛することなしに、掟は守れないでしょう。」 こう表現すると、イエス様を信じる事が、唯一の道筋であるという意図になってしまいます。 

どちらの説明も、成り立つと思います。しかし、残念ながら「イエス様は何を語ろうとしたのか?」について、確信を得るまでには、もう少し手掛かりが必要です。

 

そこで、パウロの言葉が参考になるので、フィリピ人への手紙3章12節から16節を読みます。

 

◆目標を目指して

3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。

3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、

3:14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

3:15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。』

 

ここには、2つの答えがあると思います。一つ目は、『3:12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。』とあるように、パウロですら、「努力」しているということです。そして、到達しえないにも関わらず、パウロが努力するその理由は、「自分がキリスト・イエスに捕らえられているから。」 つまり、「イエス様に愛されているから」。だからこそ、パウロは「パウロ自身が完全な者となっているわけではない」のに、イエス様に勇気づけられていたのです。

二つ目は、「聖書に細かい説明がないこと」です。さきほど、確信を持つには、手掛かりが足りないと申し上げました。しかし、逆に細かい説明が聖書の中ないことで、かえって読む人の自由度が高まっています。もちろん、勝手な読み方にならないような注意は必要ですが、読み手の祈りや到達した信仰によって、新しい別の意味が見えてくると、み言葉による恵みがさらに加えられると言えます。

『3:16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。』こうパウロが書いたように、細かい説明がない聖書は、受け止める人それぞれが、その到達した信仰、その人生経験にあわせて、何度も気づきを与えられる御言葉になっているということです。

このフィリピ人への手紙3章16節は、今日のみ言葉(ヨハネの福音書14章15節)の命令(新しいおきて)に対する、答えの一つと考えてよいでしょう。

 

さて、もう一回振り返りましょう。イエス様は、次のように言われたのです。

(新しい掟)わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

この新しい掟をフィリピ人の手紙にならって、読みとってみましょう。

 「わたしは、あなたがたを愛している。」これは、このように言われるイエス様の一方的な恵みです。そして、イエス様に捕らえられている自分は、完全なものになることが出来ているわけではありません。しかし、イエス様に一方的に捕らえられているので、なんとか努力をしている。

このことは、『ヨハネ14:23 「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。』(直訳:私を愛する人は誰でも、私の言葉を守るでしょう)と語っていることと、良く一致すると思います。

 

そして、もうひとつ 『ヨハネ14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。

イエス様が私たちに掟をくださった。それが、まず先にあるのです。そして、その前に、イエス様が私たちを愛しておられるからに違いありません。イエス様は、私たちに聖霊を降すことによって、私たちが持っていない「掟を守る力」をお与えになります。

 

これは、私たちにとって一方的な恵みであります。しかし、「私たち自身」に鞭打って、「掟をなんとか守る」ことは、重荷でしかありません。その重荷は、イエス様に担ってもらってください。イエス様の圧倒的な愛の前に、「身を任せる」ことが大事です。ついつい「自分の力」によってイエス様のようになろうとしても、出来るわけがないのです。イエス様のようになれない私たち。そのような力の足りない私たちであるからこそ、イエス様は私たちを愛してくださいます。そして、聖霊が働いて、私たちの足りない力を与えてくださいます。そこに気が付くと、よりいっそうイエス様を受け入れ、愛することが出来ると思います。

 

今日の聖書23~26節でイエス様がこのように、言っています。ヨハネによる福音書14:23 『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。

14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。』

 

イエス様はわれました。「イエス様を愛するものは、神様にも愛され、いつも神様と共にいる」そして、イエス様が天に昇られた後については、「神様がイエス様の名によって、聖霊をお遣わしになる」と。そのイエス様の言葉から、神様は私たちにイエス様を遣わし、そして聖霊をお遣わしになることを約束しました。こうして、神様、イエス様は、イエス様を愛する人たちに働きかけます。

 

イエス様の掟である「互いに愛する」ことは、私たち人間にとっては、為しえない難しさがあります。しかし、イエス様を愛する事、イエス様の言葉を受け入れる事によって、私たちの中に神様、イエス様、聖霊が宿って、導いてくれます。 ここにイエス様の平和、そして約束があります。もともと、イエス様は、私たちを一方的に愛してくださる方ですから、私たちがイエス様を愛するだけで良いのです。イエス様のみことばを信じイエス様を受け入れれば、聖霊がきっと働いて私たちの中に入ってきます。

 

神様は、私たちを愛し、イエス様を愛しています。また、イエス様も神様の愛の中にあって、神様を愛しておられたので、あの十字架にかかることを受け入れました。またイエス様は、弟子たちにイエス様を愛するように教えておられました。私たちには、イエス様に代わって聖霊が働きます。イエス様に直接お会いする代わりに、聖霊がいつでもわたしたちに臨んで下さるのです。わたしたちの内に住んでくださっているのです。「イエス様がわたしたちを愛して下さるように、イエス様を愛する」。それは、イエス様が聖霊を通して私たちに働いてくださるからこそ、成し遂げられるのです。