出エジプト記24:1-11 

ひれ伏さなければならないのに

20243月10日主日礼

ひれ伏さなければならないのに

 聖書 出エジプト記28:1-11

 今日の聖書は、出エジプト記です。神様から「神の指で記された石の板」(出31:18)を頂くために、モーセがシナイ山に登る場面であります。モーセはこのとき、神様から石の板2枚を頂きました。所謂モーセの十戒と呼ばれる、神様の命令です。イスラエルの民のために、神様が心を砕き、モーセを通して民に命令を下しているわけです。ところが、モーセが山に登っている間に、アロンをはじめイスラエルの民は、罪を犯しました。金の子牛を作っていたのですね。それを知ったモーセは、その石の板を砕いてしまいます。(出32:19)そのために、神様は3000人もの人々を裁きました。後に神様は、もう一度石の板2枚を用意させ、命令を指で刻みました。モーセは、その石の板を神の箱に納めて、幕屋でできた神殿に置いたわけです。それは今はありません。残念ながら、かなり前から神の箱も石の板も行方不明となっています。聖書には、ヨシヤ王の記事で聖なる箱(歴下35:3)が出てきますが、それ以降に神の箱はでてきません。ヨシヤ王の記事の直後にはバビロン捕囚があったので、バビロニアに持ち出されたか、盗まれないように隠したかであると思われます。そのことに関して、聖書の続編にあるマカバイ記二には、「預言者エレミヤがエジプトに隠した」ことが書かれています。

マカバイ記二『2:5 そこに到着したエレミヤは、人の住むことのできる洞穴を見つけ、そこに幕屋と契約の箱と香壇を運び込み、入り口をふさいだ。』

これが、神の箱の最後の手がかりであります。ですから、色々な伝説はあるものの、全く行方知れずのままなのです。

 さて、出エジプト記全体は、神様の救いがテーマであります。一方で、何度もつぶやき、裏切るイスラエルの民。そんなイスラエルの民を神様は、それでも愛しているんですね。イスラエルがエジプトから救い出されたこの物語は、私たちが罪から救われている、その姿に似ています。今日の箇所は、神様からの律法が与えられて、いよいよ契約書にサインという段取りの所です。契約書である十戒には、神様の聖さや正しさが示されています。イスラエルの民がエジプトから救い出されたのは、この民が神様を知るようになるためであります。そもそも、イスラエルの民が神様を知らなかったわけではありません。しかし、どんなときにも見捨てず、導いてくださる神様の愛を知ることになります。イスラエルの民は、神様は自分たちを とことん愛してくださっていることを、エジプト脱出を通じて知ったのです。こうして、イスラエルの民は神様の栄光にあずかりました。神様はイスラエルの民と供にいようとしました。そのために、幕屋をモーセに命令して作らせて、そこで民と向き合ったのです。しかし、それでも民はここまで寄り添ってくださる神様を裏切ります。

『24:1 主はモーセに言われた。「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい。あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。24:2 しかし、モーセだけは主に近づくことができる。その他の者は近づいてはならない。民は彼と共に登ることはできない。」24:3 モーセは戻って、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせると、民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言った。』

 神様は、モーセを通して「十戒」を示しました。そして、その後契約のためにシナイ山に登るように命令しているわけです。民を残して、74人がシナイ山に登り、モーセだけが神様に近づくことを許されました。モーセが代表して、契約を結ぶわけです。イスラエルの民は、モーセを介して契約に同意していました。すでに、根回しをしていたのです。

出『19:3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。19:4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。19:5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。19:6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」19:7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。19:8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。』

 イスラエルの民は契約に同意しています。いよいよ契約が結ばれようとしているそのときに、イスラエルの民は神様のところに近づくことは許されませんでした。近づくのは、契約の仲介者であるモーセだけであり、アロンとその二人息子と七十人の長老は、山の途中までしか上ることは許されません。なぜなら、ヤハウェは聖なる神様であり、人が近づけば罪と汚れのためにたちまちにして死んでしまうからです。ですから、イスラエルの民は、シナイ山に登る事すら許されませんでした。モーセは、シナイ山に登る前に準備をします。

『24:4 モーセは主の言葉をすべて書き記し、朝早く起きて、山のふもとに祭壇を築き、十二の石の柱をイスラエルの十二部族のために建てた。』

 「主の言葉をすべて書き記した」、これこそ旧約聖書で語られる神様との契約書であります。モーセは、その契約書を整えた後に、祭壇を築きました。そして、12の石の柱を立てます。この契約はモーセ個人の契約ではありません。神様とイスラエルの12部族との間の契約ですから、全部族がそろって礼拝を守って、十戒を頂くことに感謝し、そしてこの戒めを守る誓いを立てるわけです。

『24:5 彼はイスラエルの人々の若者を遣わし、焼き尽くす献げ物をささげさせ、更に和解の献げ物として主に雄牛をささげさせた。24:6 モーセは血の半分を取って鉢に入れて、残りの半分を祭壇に振りかけると、24:7 契約の書を取り、民に読んで聞かせた。彼らが、「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と言うと、24:8 モーセは血を取り、民に振りかけて言った。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である。」』

 血の注ぎをイスラエルの民は受けました。それで、彼らは神様との契約を結ぶことができるようになったのです。神様と私たちの間の距離を縮めることができるのは、この血を受け取ったからです。本来、神様に直接に会って契約などできません。しかし、この犠牲の血によって、イスラエルの民は血を流さずに済んだのです。十戒が示されて、そこに私たちの罪が示されました。もちろん罪を犯さないように努力をしようと試みます。しかし、いずれ私たちは罪を犯します。そして、罪の結果裁かれるでしょう。もしその罪への裁きが死ならば、死ななければなりません。・・・その身代わりのために、犠牲のいけにえがあるわけです。私たちに代わっていけにえの血が流された結果、私たちは神様に近づくことを許されるのです。それは、イエス様が十字架で流した血に似ています。

 イエス様が過越の祭りの食事のときに、こう言いました。

ルカ『22:20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。』

使徒ヨハネは言いました。

Ⅰヨハネ『1:7 しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。』

 旧約聖書の契約も、イエス様による契約も血による契約であります。イエス様の血の犠牲の上に、私たちは神様に向かい合うことが許されているのです。

『24:9 モーセはアロン、ナダブ、アビフおよびイスラエルの七十人の長老と一緒に登って行った。24:10 彼らがイスラエルの神を見ると、その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた。24:11 神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかったので、彼らは神を見て、食べ、また飲んだ。』

 アロンと二人の息子、そして七十人の長老は、神様を実際に見ました。モーセの仲介によって、そしてそこで捧げた生贄の血によって、契約の食事の席に着くことを許されたのです。彼らは、神様に会っても、死ぬことはありませんでした。もともと神様は、このように言っていました。

『あなたたちは遠く離れて、ひれ伏さねばならない。』

それなのに神様は、彼らを契約の食事に招きます。そして、彼らは、神様を見たのです。見たのは、なぜか足元だけです。神様全体を見たのではありません。そして、足元は宝石のサファイアの敷き石のような物があります。青く澄んでいたのでしょう。しかし、それ以上は神様を見ることが出来ませんでした。神様を真正面から見なかった彼らですが、飲み食いを許されました。神様が、彼らを契約の食事に招いたからです。彼らは滅ぼされるのを免れました。そして、神様の栄光に怯えることなく、むしろそれによって元気づけられ、慰められます。 それだけではありません。神様の御前で契約を共に喜び飲み食いできたのです。生贄である平和のささげ物から取り分けた神聖な食事を受け取り、共に祝いました。このように、神様は彼ら長老たちにこの契約の恵みを分け与えたのです。神様はこのイスラエルの民を十戒で厳しく戒めたのではありません。この契約を、共に祝って下さったのです。本当は、遠くでひれ伏さなければならないのに、神様は契約の食事に招いてくださった。この長老たちは、私たちに重なります。私たちは、イエス・キリストの血の贖いによって神様に従う機会が与えられたからです。私たちの信仰は不完全ではあるにもかかわらず、私たちは神の国に招かれているのです。神様は、このように神様に従おうとするすべての人々を恵み深く赦し、受け入れます。救いは、すでにモーセの時に始まっていたのです。神様は、その恵みを示して来ました。そして今現在も、私たちはイエス様との新しい契約、イエス様の血によってより大きな恵みに預かっています。この恵みに感謝してまいりましょう。