2024年 8月 1日 主日礼拝
『裁くのではなく、赦す者に』
聖書 ヨハネによる福音書8:3-11
今年も8月6日の広島の原爆記念日、8月9日の長崎の原爆記念日を迎えました。そして、15日が終戦記念日です。今日は、平和礼拝として、先の大戦と最近の紛争についてお話したいと思います。まず、戦争は何のためだったか?。その公的見解を、宣戦布告から見てみましょう。
第二次世界大戦での日本の宣戦布告は、イギリス・アメリカ向けに、昭和16年(1941年)12月8日に公布されました。その内容は、(①米英への戦争宣言:世界各国と親善関係を維持する方針であるが、戦争状態となり、やむを得ない。②戦争の背景:米英両国は、蒋介石政府を支援して東アジアの混乱を助長し、「平和のため」という美名に隠れて、実はひそかにアジアの覇権を握ろうという道理に反する構想を抱いている。)③戦争に至る理由:米英両国は相互に友好関係を維持しようという精神は微塵もなく、この間にかえって我が国にとっての経済上や軍事上の脅威がますます増大し、我が国に圧力をかけて隷従させようとしている。・・だからやむを得ないと言っているわけです。
一方で米英の宣戦布告は、シンプルです。米国の宣戦布告は次の通り。
①共同決議:大日本帝国政府がアメリカ合衆国政府及び国民に対して挑発的な戦争行為を行った(ので、議会でアメリカ合衆国上院及び下院が合同決議した場合、アメリカ合衆国と大日本帝国政府との間の戦争は、正式に宣言される。
②権限:大統領による軍事力の行使、議会による国のすべての資源の運用。)
私の感想ですが、戦争を仕掛けた方の開戦理由は長く、わかりにくいです。先に手を出してしまった負い目があるので、国民向の言い訳を含むからです。宣戦布告で国民に言い訳が必要なほど、日本に負い目のある開戦であったのは冷静だったとは言えません。また、双方が大きな痛手を負いますから、戦争をしかける事も、戦争を続けてしまう事も国民にとっては不幸そのものです。そしてまた、世界には戦争を使って、自分の地位を築いたり、守ろうとしたりする権力者がいます。そこにこの世の不幸があると思います。
ロシアのウクライナ侵攻を考えてみます。ロシアは宣戦布告をしていません。その代わり、プーチン大統領演説(2022年2月24日)があります。この長ーい演説で、ウクライナがロシアに併合されるべきと、一方的な言葉を繰り返しています。やはり、その本音は、力による領土の拡大や略奪であって、国民の幸福のためではないように感じます。また、ロシアは宣戦布告をしない理由は、戦争でないと言い張ることで、戦争を続けたいためです。宣戦布告をしていないので、ロシアの私利私欲のための戦争であっても、国際社会はそれを止めることが困難なのです。ロシアが宣戦布告しないのは、ほかにも理由があります。具体的には、①そもそも、宣戦布告する国際法上の合理性が無い。②宣戦布告すると、さらに強力な制裁を受ける。③国内の戦争反対の声が上がってしまって政権があやうくなる。実にわかりやすいですね。為政者は、相手国に対しても、国際関係に対しても、国民に対しても不誠実であり、自己中心です。そして、為政者の都合の良い屁理屈「戦争ではなく軍事作戦だ」と言って、人々を戦争に巻き込んでいるのです。
一方で、イスラエルは、2023年10月8日ガザ地区を支配するハマスに対して宣戦布告をしました。これは10月7日にハマスが宣戦布告なしに、イスラエルを攻撃したことによります。ハマスもイスラエルも戦闘状態であることを認めながら、正式には宣戦布告をしていません。国民不在で戦争を決め、その犠牲を国民に押し付けているのです。それは、国民に対しての不誠実です。そもそもの戦争の動機が仕返しだとするならば、倍返しではなく半返しとするのが冷静な判断と思います。そうすれば、かならず、戦争が静まっていくからです。なのに、ますます戦闘が悪化する現在の状況です。だから私は思います。ロシアもイスラエルも、正義を貫くことや、国民のために戦争を起こしているのではなく、人や物を支配するのが目的なんだな・・・と。そこには偽りの正義の名の下の暴力があります。相手国を悪だと非難し、正義の味方である我が国が悪を懲らしめよう とのプロパガンダによって、相手国を侵略し、双方の国民の犠牲もいとわない。これは、悪そのものです。先の大戦での日本の状況も似ていました。
さて、聖書はこの悪事について、何を教えているでしょうか? そして、正義とはどこにあるのでしょうか?・・・ 正義と言っても色々あると思います。悪魔のように 為政者が振りかざす「嘘の正義」もあれば、神様が良しとする本来の正義「神様から出た正義」もあります。
『8:3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、8:4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。8:5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」』
律法学者たちの主張は、一見すると正義です。律法で姦淫を禁止しているからです。でも、人一人の命にかかわることです。律法に書いてあるからと言って、石打の刑をしてよいわけはありません。事実関係を確認し、意図してやったことか? 誤ってやったことか? 無理強いされてないか? 騙されていないか? そしてそもそも、でっち上げられた可能性も検討しなければなりません。また当然ながら、調べた結果を示さずに処刑の判断を仰ぐなど、あってはなりません。そもそも、その女が罪を犯したのが事実だとしても、命も人の尊厳も奪われる石打の刑には、慎重になるはずです。また、誰が裁いたとしても、その女が生きていけることをも 普通は考えるでしょう。それなのに、律法学者たちはイエス様に、「石で撃ち殺せ」と答えさせようとしました。こんな場面で、処刑を認めてしまえば、イエス様の人気はなくなり、むしろ蔑まれるかもしれません。逆に、処刑を止めるならば、律法を守らない人だと、宣伝されるでしょう。結局、律法学者たちは、イエス様を困らせたいのです。そのために、一人の命を犠牲として求めるのは、正義であるはずもありません。
ここで、モーセの律法とは何であったかを確認したいと思います。
まず、十戒の第7の戒めです。
出『20:14 姦淫してはならない。』
そして、石打については、次の通りです。
申『22:21 娘を父親の家の戸口に引き出し、町の人たちは彼女を石で打ち殺さねばならない。彼女は父の家で姦淫を行って、イスラエルの中で愚かなことをしたからである。あなたはあなたの中から悪を取り除かねばならない。』
律法学者たちは、律法の中からこの2つだけを切り取ったと言えます。なぜかと言うと十戒には、ほかにも重要な戒めがあるからです。
第6の戒め 出『20:13 殺してはならない。』
第9の戒め 出『20:16 隣人に関して偽証してはならない。』
第10の戒め 出『20:17 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」』
十戒は、律法では最上位となります。そして、殺してはならない(第7の戒め)が、姦淫(第8の戒め)の一つ上位にあります。また、当然ながら、偽証(第9の戒め)によって人が処刑てはなりません。そして、隣人のものを一切欲してはならない(第10の戒め)とあるように、律法学者たちはイエス様の人気と権威を欲しがってはならないのです。律法学者たちは、律法の一部分だけを取り上げ 「処刑するのが相当」とイエス様に提案します。これは、律法の本質から完全に逸脱しています。なぜなら彼らは、律法を己の欲のために悪用したのです。彼ら律法学者たちは、偽物の正義を振りかざしました。・・・
ここで、もう一つの戒め 十戒の第2の戒めに注目したいと思います。
出『20:3 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。』
律法学者たちは、自らが神になってしまって、自らを絶対化しているように見えます。神様のためにではなく、己の欲のために行動するからです。彼らの目的がそもそも悪なのでしょう。神様の栄光を表すためではなく、イエス様を貶めるために行動しているのです。また、裁きの結果によっては、その女の命が失われるのです。その女を助けようとないことも、悪であります。
『8:6 ~イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。』
イエス様は、律法学者たちの問いに、まったく答えようとしませんでした。ただただ、イエス様を貶めるためだけの問いだとわかっていたからです。
『8:7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8:8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。』
イエス様は、律法学者たちの謀りごとを理解していました。第一にこの女を律法学者たちから助けたいのです。また、彼女が犯した罪を責めるべきか?。もし、彼女が何の反論もせずに、深く反省していたのならば、その必要はないはずです。そして、彼女が自身の命と引き換えに罪を償うことをイエス様は望んでいません。イエス様が望んでおられるのは、新しく彼女が生まれ変わる事であります。それが、神様のみ旨でもあります。イエス様は、彼女が助かり、新しく生まれ変わることを望んで、律法学者たちに答えます。
『8:7 ~「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」』
最初に石を投げる人とは、訴えを証明する「証人」です。証人が彼女の罪を立証して、最初の石を投げるのです。つまりイエス様が言ったのは、「罪を犯していないならば、証人となって訴えてください。」なのです。・・・そもそも、全ての人は罪を犯しています。だから、このイエス様の条件では、だれも証人となって訴えることは出来ません。そして、「神様の律法に沿って訴えなさい」とのイエス様の要求でもあります。神様の御心に沿うように祈る。そして、自分の思いではなく神様の御心をもとに証人として立ち、訴えなさい。と、イエス様は律法学者たちに指示したのです。神様の御心でないことを人の思いによって、訴える。このこと自体が罪なのです。・・・その結果、だれもいなくなり、女だけが残りました。
イエス様は言います。
『「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」』
私たちは、意図しないうちに罪を犯しています。だから、お互いの罪を裁きあっては、平和はやってきません。私たちを裁くことなく、私たちに寄り添い、私たちを赦し、そして私たちに新しく生きる希望を与えてくださるイエス様。このイエス様に信頼してまいりましょう。そこに平和があります。