イザヤ書40:1-5 

荒野に道を通せ

2020年 5月 3日 主日礼拝

『荒野に道を通せ』 

聖書 イザヤ書40章1-5節   

イザヤ書40章-55章は、無名の預言者によって書かれたと言われていて、聖書学者は、その人物を第二イザヤと呼んで、39章までを書いたとされるアモツの子イザヤと区別しています。そんな関係で、1-39章を第一イザヤ、40-55章を第二イザヤと呼ぶ習慣になっています。どうして、同じイザヤなのに別人が書いたとされるのか?と言うと。書かれているテーマが、「イスラエルの民の神への不従順に対する裁き」である第一イザヤに対して、第二イザヤは、「民への慰め」。つまり、第一イザヤでは一貫して「懲らしめよ」と展開していたのに、4第二イザヤに来て急に「慰めよ」に代わっていることに気が付くと思います。あまりに違うものですから、第二イザヤは、別の人物が書いたと考えられているわけです。それから、第一イザヤを書いたとされるアモツの子イザヤは紀元前8世紀の預言者なのに対し、第二イザヤの預言は、紀元前6世紀の中頃の状況を背景にしています。

アモツの子イザヤの時代、アッシリア帝国がユダ王国を苦しめていました。そのアッシリア帝国は、約100年後の紀元前612年にバビロニア帝国によって滅ぼされました。ユダ王国は、かろうじて生きながらえてきましたが、バビロニア帝国のネブカドネザル王の三度に及ぶ侵略と捕囚(前597年、587年、582年)によって、滅び去りました。

その滅亡は、主の言葉を退け、主のことばを語る預言者を退け、背信の罪を重ねる民への審判の結果でありました。第一イザヤの警告が聞かれなかった結果、バビロン捕囚となった。そういうことを聖書は伝えようとしていると思います。

さて、第二イザヤですが、バビロン捕囚という絶望の中にいるイスラエルの民に神様が下さった希望でした。しかも、驚くべきことがあります。第一イザヤが警告したこと、「これを聞かないからいけない」とか、「これを聞いたら慰めてあげる」などとは、第二イザヤは言っていないのです。第二イザヤの宣言した慰めは、無条件の慰めでした。考えてみてください。祖国がなくなって、異国の地に連れてこられただけではないのです。囚われの身であって、自分らの神様を自由に礼拝することもできないのです。

そして、異教徒の国に敗れたということは、自分らの礼拝する唯一の神様が、異教の神に負けたということ。そういう絶望感もあったのです。イスラエルの神の存在が、否定された現実。そして、同時にイスラエルの民の誇りが。ずたずたに引き裂かれていたのでした。

 

捕囚された人々は、バビロンとケバル川のほとりの村々に住みました。そのバビロン各地の捕囚民は、小さな共同体を造り、支配と差別の中で自らの精神的・宗教的遺産を大事に守り続け、いつの日か必ず祖国に帰ることができるという希望を持ち続けようとしました。

詩篇137篇1-4節に、捕囚民の嘆きが歌われています。

 バビロンの流れのほとりに座り

 シオンを思って、わたしたちは泣いた。

 竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

 わたしたちを捕囚にした民が歌をうたえと言うから

 わたしたちを嘲る民が、楽しもうとして

 「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

 どうして歌うことができようか

 主のための歌を、異教の地で。

 

さて、今日のみ言葉を少し読み込んでみたいと思います。

まず  1節に『「慰めよ、わたしの民を慰めよと」あなたたちの神は言われる。

1章から39章までの第一イザヤでは「懲らしめよ 懲らしめよ」だったのが、

この40章第二イザヤから「慰めよ 慰めよ」に急に調子が変わります。

私たちの罪を前にして、あんなに怒っておられた神様が、どうして急に私たちの罪を赦して慰めてくれるのでしょう。

2節を見てみましょう エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。

 

「エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ。」と神様は語ってくださいます。あなたの罪のことで、神はあなたを何時までも責めたりはしません。子供が悪さをしたら、「ごめんなさい、悪いところを直すから許して」と謝るとき、「じゅあ ちゃんとするって約束するね?」という親はいるでしょう。「それだから、赦す」という条件付きの赦しです。ところが、ここで言う「慰めよ」には、何も条件が付いていません。第一イザヤで言われてきたイスラエルの民の悪さを、「直しなさい」とは、言っていないのです。そして、「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた」と、すでにイスラエルの民が受けた苦難によって、その罪をあがなわれたと宣言するのです。神様はイスラエルの民の罪の大きさと、そのために強いられた苦役の大きさを比べているのでしょうか?。いいえ、ここで神様が語ったのは、私たちの罪の大きさと、受けた苦難が見合っていたかどうかではありません。神様は、苦難を受けたイスラエルの民への慰めを下さった。民の希望がなくならないように。だから、さらにイスラエルの民を戒めることをしていません。やさしい神様がそこにいました。鞭打たれて、傷んでいる民が再び立ち上がれるように、神様は無条件に手を差し伸べたのです。そして、苦難に悩まされる民に、その重荷を下ろさせて、慰めと言う心の平安を与えてくださる。神様はイスラエルの民のすべての罪に引き替え、二倍もの報いを約束してくださいました。そのすべての罪に引き替えに、イスラエルの民の罪は完全に償われ、そして慰めを与えると神様は約束されたのです。

これは、イエス・キリストの救いを暗示したような預言であります。

イエス・キリストが 私たちのために十字架にかかってくださったので、わたしたちの罪は償われました。もう罪に悩む必要はありません。その苦難は終わり、そして、慰めを与えられます。

そのように、第二イザヤは預言しているのです。

 

では、それはいつ?そしてどのように?慰めが与えられるのしょう。

この第二イザヤには具体的には、書かれていません。むしろ、バビロン帝国が滅亡して、ユダ王国に帰る日への希望ばかりが、つづられています。

希望、その希望を持つためには、神様が怒っていないことが必要です。バビロン捕囚に至ったイスラエルの民が、罪を自覚しているならば、もう神様は民に苦難を加えることがないことが解るまで、平安は来るわけがありません。ですから、神様は第二イザヤに預言を託したのです。神様の方から、イスラエルの民に語りかけたのです。

「あなたの罪のことで神様はもう怒ってはおられません。」  だから

「その苦難は終わり、その罪は償われた。」

これが、神様が私にくださった一方的な赦しなのです。

 

そして、神様はそのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けると約束してくださいました。ただ赦してくださったというだけではないのです。赦してくださるだけならば一倍のものを受けることになります。それが、私たちの罪の引き替えに、二倍のものを受させていただける。罪の二倍ですから、私たちの罪は完全に償われます。そして、さらに生きる希望を与えてくださったのです。イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったので、私たちは償われ、またイエスキリストを信じる事によって、永遠の命を得ることが出来るのです。ヨハネによる福音書から、み言葉を読みますから聞いてください。

「ヨハネ5:24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」

 

さて、このように神は私たちを罪から解放してくださいました。次に、主の道を整えなさいと 神様は命令します。3節から5節までを読んでみましょう。

40:3 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。40:4 谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。

 

ここに出てくる道とは、主が通られる道のことです。バビロンから解放してくださった神様が、私たちを罪から解放してくださった神様が、その道を通ってユダの都エルサレムに帰ろうとしています。その道を整えるようにという命令です。古代では、その国の王様が旅をするような大行列のためには、広くて、出来るだけまっすぐで、傾斜が少ない道路を整えることから始めていました。王の王、主であられるイエス・キリストが来られるのですから、イエス様が通られる時までに、まっすぐな道を整えるようにと言われているのです。

 

新約聖書をみると、この「荒野に呼ばわる者の声」とはバプテスマのヨハネのことを指していたのがわかります。彼はキリストが来られる前に現れ、メシヤがいつ来てもいいように準備するように教え、悔い改めのバプテスマを授けました。彼は、いかにも旧約聖書の預言者のような生活をしていたので、もしかすると彼はあの偉大な預言者エリヤの再来ではないかとか、あるいは、この方がキリストではないかと思われていました。そのヨハネが「あなたはだれですか」と群衆から尋ねられたとき、次のように答えました。

わたしは、荒野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。(ヨハネ1:23)

ヨハネは、自分はエリヤでも、キリストでもない、ただの荒野の声だと言いました。主の道を整えるように、荒野で呼ばわる声だと言ったのです。これがヨハネの役割でした。そして、それは私たちの役割でもあります。ヨハネが自分のところに来る人々をイエスのもとに導いたように、私たちも周辺の人をイエスのもとに導くことを望まれているのです。

 

神様は、バビロン捕囚で大きく痛んでいたイスラエルの民をその罪のゆえに「懲らしめる」のではなく、ただただ無条件に「慰めよ」とお命じになりました。そうして神様は、私たちにイエス様を送ってくださいました。イエス様は、私たちを無条件に愛し、私たちの罪による痛みの2倍のものを与えてくださいます。ですから、罪をゆるされて終わるのではなく、さらに主イエスの慰めや導きによって、力が与えられるものだと信じます。ですから、心配で心を痛めればイエス様が助けるでしょう。イエス様は、必要を満たす方です。そして、痛みをいやされる以上に力を頂いたならば、イエス様のことを周囲の人に証ししましょう。そうすれば、その人の中でイエス様が通りやすいように道がまっすぐに整っていきます。