ヨハネ3:1-15

 教えを求めるニコデモ

2024年 6月 2日 主日礼拝

教えを求めるニコデモ

聖書 ヨハネによる福音書3:1-15


 今日の聖書では、ニコデモというファリサイ派の人が登場します。彼は当時のユダヤの権威の象徴であった最高法院(サンヘドリン)の議員でした。(ヨハネ3:1)また、イエス様が葬られる時に没薬を持って来た人物でもあります。(ヨハネ19:39) 今日の箇所を読みますと、ニコデモは最高法院の議員であるにもかかわらず、直接イエス様から教えを受けています。また、ニコデモはもう一回だけ登場しますが、その記事を見るとどのような人か想像出来そうです。イエス様を捕まえようとする大祭司たちを、ニコデモはこう言ってたしなめたからです。

ヨハネ『7:51 「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」』

 この記事から、ニコデモは最高法院の議員でありながら、イエス様の理解者であったと読み取ることもできます。また、あくまで中立の人で、感情にとらわれない冷静な人と見ることもできます。少なくとも、根拠なく対立するような人ではなく、対話をする人だったと思われます。ですから、最高法院の議員であるニコデモの言葉には、イエス様を陥れようとの意図は無いと言えそうです。イエス様も、このユダヤ人指導者ニコデモとの対話を通して、「霊」について教えています。

 ニコデモは、「ファリサイ派の人で、ユダヤ人たちの議員」(3:1)であることから、律法を重んじた生活をしていたと思われます。ところが、ニコデモは他のファリサイ派の人たちとは違っていたようです。イエス・キリストの奇跡を見た指導者たちは、イエス様の奇跡を自分の目で見ていながら、「あれは悪霊の働きだ」等と言って認めません。また、イエス様の教えに対しても「偽預言者」だと言いました。つまり、イエス様の事を教師だとも、預言者だとも思っていなかったのです。しかしニコデモは、直接自分で会って話しを聞きたいと思いました。そこには、期待もあったのだと思います。「もしかするとイエス様は、本当に神様が遣わされた方であり、メシアかも知れない」・・・実際、ニコデモはイエス様に会いに行きます。


『3:2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」』

 ニコデモは、昼間ではなく、あえて夜に人目を避けてイエス様を尋ねました。そして、この証しをしたのです。それに、イエス様の事をラビと呼びました。先生と言う意味です。そこに、イエス様への敬意が現れています。そして、一人でしかも夜中に、ニコデモはこの証をしました。たぶん、この証を他の人に聞かれたくなかったのだろう・・と思われます。

 イエス様は、そんなニコデモの心の中をよく知っていました。律法の教えに精通し、純粋にダビデの王国の再建を待ち望んでいたニコデモに対して、イエス様は、神の国の事を教えます。メシアは、神の国に人々を招くためにこの地上に降ってきたからです。

『3:3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」』

 神の国とは、目に見える国の事ではまりません。永遠の命を持つ者が受け継ぐ王国です。その神の国に入るためには新たに生まれなければならないのです。 ここで言う「新たに生まれる」ということは、永遠に生きたい、人生をやり直したいといった人間の願望のことではありません。「新たに生まれる」とは、肉体ではなく、「霊」が新たに生まれることを指しているのです。


『人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。』 このイエス様の言葉にニコデモは素直に問い返します。

『年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。』

ニコデモは、「たとえ」を使いました。年を取った者とは、まさにユダヤ教の指導者であるニコデモを指します。そして、生まれるとは、改宗して信仰生活を始めることを指します。そして、「もう一度母親の胎内に入って」との表現は、肉体的に生まれ変わる事は、できない!との、強い否定であります。ですから、ニコデモの問いは、このように読み取ることが出来ます。

「私は年よりです。いまからどうやって改宗しろと言うのですか? 死んで生まれ代わりなさいとでも言うのですか?」

 イエス様の答えは、

『「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。3:6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。3:7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」』

 イエス様は、『あなたがたは新たに生まれねばならない』と、明確に教えています。それは、歳をとって死んでから、生まれ代わるのではなく、今、生きている間に新しく生まれるということです。それは体の生まれ変わりのことではなく、「霊によって生まれる」ということです。「水と霊とによって」とイエス様は言いました。水は洗い清めつまり罪を悔い改めることを示し、霊は罪の赦しと共に新しく命を頂くことを示します。神様の第三位格である聖霊によって、私たちは永遠の命を与えられるのです。聖霊は目に見えませんが、風のように確かにある存在なのです。(「風」という語も「霊」という語も同じギリシャ語の「プニューマ」が用いられています)そして、聖霊によって新しく生まれる者だけが、神の国に入ることができます。


 ニコデモは、イエス様の言葉を聞いて、どうしてそんなことがありえましょうか? と問いただします。ニコデモの抱いた疑問は、こんなことだったと思われます。

「なぜ聖霊によってのみ、新しく生まれ、そして神の国に入れるのか?。自分たちは、人並み以上に神様の教えである律法を守り、教えてきた。神様の律法を守ることこそが、神の国に入るために必要なはずではないか?。それを守らない罪人が、どうして水と霊によって神の国に入ることができるのか?」

その疑問に対して、

『3:10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。3:11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。』

 イエス様は厳しい言葉を使いました。

「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。」つまり聖書を学んでいるなら、「聖霊によって生まれる」ということを理解しているはずだ、と言うことです。それは、例えばエゼキエル書には、このように書かれているからです。。

エゼキエル『36:25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。36:26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。36:27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。』

 このように、聖霊による、新しい歩みが始まることを、エゼキエルは預言していたのです。だから、イエス様はニコデモに厳しく言います。

『3:12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。3:13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。』

 これはこの通りですね。聖書に書いてあることを話しているのに、聖書の専門家であるニコデモが信じない。ならば、神の国の事を話しても、ニコデモは信じるはずがないというわけです。そもそも、イエス様以外は神の国を知らないのです。神の国を知っている人の言葉を信じないのであれば、この地上で神の国を知ることは、無いのでしょう。

 そして、イエス様はモーセの記事を使ってニコデモに教えます。

『3:14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。3:15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。』

 ここで、モーセが蛇を挙げた記事を確認してみましょう。民数記21:4-9ですが、そのあらましはこうです。エジプトを脱出したイスラエルが荒野で食べ物も飲み物も無くなった時に、モーセたちに苦情を言います。それは言ってみれば神様に対する「つぶやき」でありました。イスラエルは反逆の罪を犯したのです。そこで、神様は燃える蛇を送り、彼らをさばきます。民は、悔い改め、モーセは神様に祈りました。そのとき、モーセは神様の命令で青銅の蛇をつくります。そしてその呪われた青銅の蛇を仰ぎ見た者は救われました。この出来事は、まさに後のイエス・キリストの十字架を表すものでした。

 イエス様はこのモーセの起こした出来事を解き明かします。それは、御自身が呪われた者となって木にかけられ、殺されなければならないことです。そして、十字架に架けられたイエス・キリストを仰ぎ見るとき、その人の罪は赦され救われるのです。だから言えるのです。救いは、律法を守ることによって与えられるのでなく、ただ信仰によって与えられる。このようにイエス様は教え、ニコデモを信仰に導きました。

 

 最高法院の議員のなかでも権威を持つニコデモは、イエス様に会いに行き、顔と顔を合わせ、疑問をぶつけて、そして導かれました。そして、イエス様が十字架に架けられ殺されて、墓に葬られる時に、ニコデモは弟子たちと一緒にいました。ニコデモはすでに聖霊によって新しく生まれて、キリストを愛する者に変えられていたのです。こうしてニコデモは、「永遠の命」を求める私たちの先駆け(魁)の一人となりました。


 一人も滅びることが無いように、それがイエス様の望んでいるところです。私たちも、ニコデモのようにイエス様を信じる信仰を証して、永遠の命を求める者の手本となるように祈り求めてまいりましょう。